2022年6月12日日曜日

 岸田政権の「新しい資本主義」は基本的にはアベノミクスの継承であり、何ら社会主義的な政策(富の再分配など)を意味するものではないということは、前にも書いたことがある。それを左翼やマス護美が意図的に曲解して、安部と何ら変わりないとか言って叩いているのは、ただただ草が生える。
 新しい資本主義は基本的には持続可能資本主義であり、本来は株主主導で行うべきものだが、日本ではまず株主の力が弱すぎるので、そこを国策で補わなくてはならないということだ。

 それでは「東路記」の続き。

 昔の進歩史観だと、如何にも昔の人が迷信を本気で信じてたみたいに言うが、怪異についても仏の霊験についても軍記物語についても、ほとんどの人にとってはうわさ話のレベルだったと思う。
 いつの時代の人もうわさ話については自然と耐性を持っているもので、信じもせず、かといって無下に否定するでもなく、グレー領域で処理してきたものだ、今日のUFOと同じと言って良い。
 だから、歴史ドラマなんかで間者を使ってうわさを流して合戦を優位に進めるというのがあったりするけど、実際はそれほど効果はなかったんじゃないかと思う。
 うわさという形で真偽不明の情報をグレーゾーンとして保持することは庶民の知恵でもある。後で真偽が判明した時に、どっちに転んでもいいように保険をかけるのは、生きていくのに不可欠なことだ。昔から言う。信じる者は馬鹿を見る、と。

 「沼津の南の大河を狩野川と云。伊豆のおく山より出る川也。狩野は民家多き所なり。沼津の南に鷲津山とて、とがりて高き岩山そびへて見ゆる。沼津の東の方の町を三枚橋と云。是より日和よき時は、江尻へ船をのる。海上七里有。富士おろしはげしき故、嵐たつ日は渡海せず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 狩野川は伊豆半島の天城山系の方を源流とし、かつて北条氏が支配した今の伊豆の国市の辺りを経て、沼津の東で黄瀬川と合流する。沼津宿南側を流れる狩野川は伊豆の水と御殿場の方から流れる水とが合わさって、堂々たる大河になる。古来水害に悩まされてきた地域だった。
 古代東海道の位置は諸説あるが、黄瀬川を渡らずに狩野川の南を通った可能性もある。
 その沼津の南の狩野川の向こうはすぐ山になっている。まず香貫山があり、横山があり、徳倉山があり、像の背山があり、そして鷲頭山に至る。ここではこれらを総称して鷲津山と呼んでいたのだろう。今は沼津アルプスともいう。
 「とがりて高き岩山そびへて見ゆる」とあるのは、その南にある城山ではないかと思う。鷲頭山の西側にもロッククライミングをやる岩場はあるが、この描写にふさわしいのは城山の方ではないかと思う。
 昔の沼津宿はこの狩野川が河口へ向けて南に向きを変えるその西側にあった。その手前に三枚橋町の地名が今でも残っている。安土桃山時代には三枚橋城があったが、江戸時代には廃城になっている。ウィキペディアには、

 「1601年(慶長6年)に大久保忠佐が城主となり沼津藩主となったが、1613年(慶長18年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌1614年(慶長19年)に廃城となる。同年には火災がありその後徳川忠長が治め御殿を建てるものの1641年(寛永18年)に焼失し、外堀と二の丸に開墾許可が出され、1674年(延宝2年)田畑となった。1687年(貞享4年)には二の丸や土手が、また1689年(元禄2年)にも二の丸や土手が入札され農地化が進み、三枚橋城は姿を変えて行き、新たな町が誕生し(上土町・川廓町・志多町)沼津宿を形成していった。」

とある。
 「是より日和よき時は、江尻へ船をのる」とあり、ここから今の静岡市清水に向かう船が出ていたようだ。駿河湾を横断する形になる。
 古代東海道も、当時は田子の浦は大きな入り江で、沼津から吉原にかけても巨大な干潟が横たわっていたので、清見寺から蒲原までは「波の関守」のいる海岸ルートの陸路があったが、そこから先の田子の浦は海上ルートを通っていた。

 田子の浦にうちいでて見れば白妙の
     富士の高嶺に雪はふりつつ
              山部赤人(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られているが、この海上ルートから見た富士の眺めを詠んだものと思われる。

 「〇沼津の西に千本の松原有。昔、頼朝平家追討の後、小松殿の嫡孫六代、此松原にてきられんとせしを文覚上人、頼朝にこひ受て助けし所なり。ちもとの松原とて名所なり。〇車返し。沼津の辺を云。きせ川より西也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 沼津宿を出たすぐの所に海岸があり、そこに千本松原があり、今は千本浜公園になっている。十三世紀の『東関紀行』にも、

 見渡せば千本の松の末とほみ
     みどりにつづく波の上かな

の歌がある。古歌に詠まれている所は基本的に名所とみなされる。
 ここから東海道は海岸沿いに進むことになる。元は巨大な干潟と海との間の細い砂州で、江戸時代初期から新田開発が行われ、この頃は一面の田んぼが広がっていたのだろう。
 この時代は地球規模での寒冷化が起きていたから、元からかなり干潟は縮小していたのかもしれない。そのおかげで、沼津から蒲原までの陸路は安全なルートになっていた。
 千本松原は砂丘だったため、急な上り坂があったのだろう。古来「車返し」と呼ばれる坂があった。『東関紀行』にも「車返しと云里あり」と記されていて、この「里」が沼津宿の前身となる車返宿になる。

 「原と吉原の間、浮嶋が原なり。芦高山の上に蘆高明神の社有。明神の馬とて芦高山に野馬多し。百疋にはこさずと云、牧の馬のごとし。興国寺の城は芦高山のふもとなり。沼の向なり。吉原のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 愛鷹山と街道の通る砂州との間はかつては巨大の干潟で、そこに三つの島が浮かび、かつての象潟のような景観が見られたのだろう。この広い干潟全体を浮島が原と言っていたのではないかと思う。『東関紀行』には、

 「浮嶋が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはるばるとながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所々に棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。
 南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべての孤島の眼に遮なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。
 こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心ぼそし。原には塩屋の煙たえだえ立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。
 此原昔は海の上にうかびて、蓬莱の三つ嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞にも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ、いとどおくゆかし見ゆ。

 影ひたす沼の入江に富士のねの
     けぶりも雲も浮嶋が原」

とある。
 浮島が原も名所で、

 足柄の関路越え行くしののめに
     ひとむら霞む浮嶋の原
              藤原良経(新勅撰集)
 足柄の関路晴れ行く夕日影
     みぞれに曇る浮島が原
              藤原家隆(建保名所百首)

などの歌に詠まれている。
 この時代には既に、三つの島は芦原に埋もれていたのだろう。煙と雲だけが浮かんでいた。江戸時代には多くは田んぼになっていたが、一部にはその名残の沼が残っていたのだろう。
 かつて芦原だったところから、その向こうの見える愛鷹山は「芦高山」と表記されていたのだろう。
 愛鷹山の放牧については、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「愛鷹山」の解説」に、「山名はかつて足高之峰とも書かれ、古代には官牧が設けられ、馬の放牧がなされていた。」とある。
 その名残でこの時代も野生化した馬が住み着いていたのだろう。ちょうど宮崎の都井岬の野生馬のような状態になっていたか。
 江戸後期になると愛鷹牧という幕府の放牧場になり、明治の初めまで続いたという。三島市郷土資料館のホームページに愛鷹牧を描いた「世古本陣図屏風」(世古直史氏蔵)のことが記されている。
 興国寺城はウィキペディアに、

 「興国寺城は静岡県東部の愛鷹山南麓に位置している。愛鷹山南麓の地形は連続した傾斜面となっているが、興国寺城付近は谷底平野を一部伴った侵食谷によってブロック状に緩斜面が分断されている。また山麓部から低地への移行部には小扇状地が形成され、旧浮島ヶ原の低湿地につながっている。興国寺城の立地は、城の東西は開析された侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、そして南方の浮島ヶ原の低湿地を天然の要害として利用した、地形を生かした典型的な城郭の立地といえる。」

とある。
 今日の興国寺城跡とされている場所はJR原駅から北に行った、新東名の駿河湾沼津サービスエリアに行く登り口の辺りにあり、浮島ヶ原自然公園はJR東田子の浦駅の辺りで、かなり離れている。慶長十二年(一六〇七年)に興国寺城は廃城になっているから、貞享の頃にはその所在地もよくわからなくなっていたのかもしれない。

 「吉原の町、延宝八年の比、海水あふれ民屋悉く崩る。是、世俗に津波と云也。町の人は富士のすそのの方へにげて命をのがれぬ。其後もとの町ありし所、地ひきくして重て水災あらん事をおそれて、十町ばかり北へあがりて今の町を立し也。其故に原の方へは十町ばかり遠くなり、神原へは十町ばかり近くなる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 一町は約百メートルで、延宝の末に吉原宿が一キロほど北へ移動したことになる。吉原宿が今の岳南鉄道の吉原本町の辺りだとすると、かつてはJR吉原駅に近い「左富士の碑」のある辺りにあったか。今まで右に見えていた富士がここでS字にカーブしていて左に見えるようになる、そのカーブが古い宿場の名残なのかもしれない。
 延宝八年とあるが、延宝五年の延宝房総沖地震の間違いか。ウィキペディアに、

 「延宝5年10月9日夜五つ時(亥刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。
 「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある。
 〇「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
 〇「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
 〇「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
 〇「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)」

とある。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻六十七句目に、

   石こづめなる山本の雲
 大地震つづいて龍やのぼるらむ  似春

の句がある。地震の後に竜巻が起きたか、あるいは津波の跡があたかも龍が通った後みたいだったということかもしれない。FFでいうリバイアサンの大海嘯ではないが。
 六十八句目は芭蕉が、

   大地震つづいて龍やのぼるらむ
 長十丈の鯰なりけり       桃青

の句を付けている。十丈は約三十メートル。延宝五年の房総の津波はウィキペディアに、

 「東北学院大、東北大などのチームによれば、M8.34、津波の最大高は17m(銚子)、最大遡上高は20m。標高10mの池の堆積物を調べ、コンピュータシミュレーションをした。」

とあるから、十丈もあながち誇張ではない。

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