今年は五月閏ということで芭蕉の最期の年元禄七年を見てきた。ほんの少しだけど、芭蕉の死を見取ったような気がする。
支考の『前後日記』に、「飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと」とあるのを読んで、点滴のなかった時代はそうだったんだなと思った。今だったら食べなくても点滴で生きながらえることができる。昔は食べ物が喉を通らなくなった時点で、もう終わりだったんだ。
芭蕉の死を考るあまりに自分の死を意識すると、なんか厭世的になってくる。生まれてから死ぬまで続く、のがれられない生存競争。この世界の片隅に何とか自分ひとり生きてゆける隙間を見つける、たったそれだけのことで人は疲れ果てて、それで戦う意欲を失ったときは死ぬしかないんだろうな。
人と人とはお互い張り合って、その「張り」が人間存在の空間性だなんて和辻哲郎は言ってたな。お互い生きようとして、頑張って、その緊張関係が人間の世界を形作っている。個と個もそうだし、民族と民族もそうだし、国家と国家もそうだ。適度の張りがあって、世界はうまく動いてゆく。
社会主義は一つの哲学が支配することで秩序ある世界を作ろうとするが、結局「一つの哲学」なんてものは存在せず、人間の数だけ哲学ができてしまう。それを一つにするのはただ強力な権力。独裁国家だった。独裁国家で生存競争が終わることはない。ただ独裁者の座をめぐって最も過酷な競争が生じるだけだった。飢餓と粛清、それが社会主義の結末だった。
世界を一つにしようというインターナショナリズムも、結局は特定の民族が他の民族を支配し、強力な権力で争いを封じてただけだった。それがほころんだ時どうなるかは旧ユーゴスラビアがどうなったかを見ればいい。
生存競争が避けられないなら、それとうまく付き合って、その軋轢を和らげて行くしかない。怒りを笑いに転じてゆくのが俳諧の知恵であり、日本人の知恵だった。独裁国家は例外なく笑いを奪う。笑うことも戦いだ。
芭蕉のその後は、支考の『前後日記』には、
「此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曽塚の旧草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)
其角の『芭蕉翁終焉記』には、
「物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子治朗兵衛・予ともに十人、笘もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、‥‥」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)
とある。
『源氏物語』の時代でも京都から舟であっという間に須磨まで移動したが、上方の海運は古代から受け継がれていたようだ。芭蕉の遺体も一晩で伏見に着き、翌日には大津の義仲寺に辿り着いた。そこで葬儀が行われ、三百人もの人が集まったという。やはり芭蕉は当時の大スターだった。笑いは世界を救う力がある。みんなそれを知っている。
ということで〆にして、次回からは気分を変えたいものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿