2017年12月26日火曜日

 今年も残りわずか。この時期になると思い出すのがジョージ・ハリスンのDing Dong, Ding Dongという曲。多分これを聞いたときは中学生だったか。簡単な英語なのですぐに覚えられた。
 時代遅れなものや捏造されたものは早いこと追い出して、新しいものと真実を迎え入れよう。ネトウヨもパヨクもさようならーーー。容赦なく前へ進もう。一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくするものでありますように。
 さて、「詩あきんど」の巻の続き。

 十四句目。

   ほととぎす怨の霊と啼かへり
 うき世に泥(なづ)む寒食の痩   其角

 「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、

 「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」

だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも旧暦三月のところにある。春の季語。
 時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。

 十五句目。

   うき世に泥む寒食の痩
 沓は花貧重し笠はさん俵     芭蕉

 春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。
 「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、

 「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。
 桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」

とある。

 十六句目。

   沓は花貧重し笠はさん俵
 芭蕉あるじの蝶丁(たたく)見よ 其角

 これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。
 「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。

 十七句目。

   芭蕉あるじの蝶丁見よ
 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉

 前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。

 十八句目。

   腐レたる俳諧犬もくらはずや
 鰥々(ほちほち)として寝ぬ夜ねぬ月 其角

 「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。
 犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。

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