さあ、「冬木だち」の巻、二裏に入り、一気に挙句までいってみよう。
三十一句目。
月の夜ごろの遠きいなづま
仰ぎ見て人なき車冷まじき 蕪村
また古代ネタに戻る。国学の影響で古代が過度に美化されていたことも一因かもしれない。
車というと伝統的には源氏物語の車争いなどがネタにされがちだが、そういうどろどろしたものとは別に、人の乗っていない車を景物として扱う。まあ、近代的に言えば「純粋芸術」ということだが。
三十二句目。
仰ぎ見て人なき車冷まじき
相図の礫今やうつらし 几董
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には「恋人をひそかに盗み出そうとする緊迫した情景」としている。そうだとすると穏やかでないし、あまり風流とは言えないが、江戸後期にはそういうのを美化する風潮があったのだろう。
儒教文化が浸透して女性の処女性が重視されるようになると、それだけ男としては性交の機会が減るわけだから、処女崇拝とレイプは表裏一体をなしているのかもしれない。
『源氏物語』の解釈も本居宣長によって、それまでの『湖月抄』の解釈とは随分違うものとなった。近代の解釈は基本的に本居宣長の解釈を引き継いでいるため、レイプされた女がその時の快感が忘れられずにレイプした男に恋をするなんて話を安易に信じる。
女とはそういうものだという観念が、戦時中まで引き継がれてきた。南京事件をはじめとして、戦地でのモラルが崩壊し、その対策として従軍慰安婦が動員された。慰安婦は表向きは娼婦だが、その多くは債務奴隷として売られてきた女性だったというし、一部には強制連行されたケースもあった。そのことは反省すべきであろう。
『源氏物語』ではっきり処女だったと確認できるのは若紫だけで、あとはよくわからない。昔は処女性にそんなに関心はなかった。
三十三句目。
相図の礫今やうつらし
添ぶしにあすらが眠うかがひつ 蕪村
「あすら」は阿修羅のことで、まあここでは悪役ということなのだろう。残虐な阿修羅の元から女を助け出すヒーロー物として展開したと見ればいいのか。
三十四句目。
添ぶしにあすらが眠うかがひつ
甕(もたひ)の花のひらひらとちる 几董
阿修羅が眠っている脇では甕に生けた花がひらひらと散っている。春の長閑な情景に転じる。
ひさかたのひかりのどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
紀友則
の歌にもあるように、花は散るべき時が来れば風のあるなしに関わらず散り始める。
三十五句目。
甕の花のひらひらとちる
根継する屋かげの壁の下萌に 几董
「根継ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、
1 (根接ぎ)接ぎ木の一。根を台木として接ぎ木すること。また、弱っている木に強い木の根を添え接ぎし、樹勢を取り戻させること。
2 (根継ぎ)木造建築で、柱や土台などの腐った部分を取り除き、新しい材料で継ぎ足すこと。
3 跡を継ぐこと。また、その人。跡継ぎ。
とある。とはいえ「根継ぎ」で検索すると、表示されるのはほとんどが2の意味のものだ。1や3の意味は今日では廃れている。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注も2の意味に取っている。ただ、工事の振動で花が散ったんではあまり面白くない。『炭俵』の「梅が香に」の巻の第三に、
処々に雉子の啼たつ
家普請を春のてすきにとり付て 野坡
の句があるように、春は家の修理などを始める季節だったと考える方がいいだろう。
挙句。
根継する屋かげの壁の下萌に
巣つくる蜂の子をいのり呼 蕪村
家を修理するのも子孫繁栄のためで、蜂が巣を作るのも子孫繁栄を祈ってのこと。最後を人情で絞めるあたりは大阪談林の匂いがする。
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