昨日は丸の内のイルミネーションを見に行った。シャンパンゴールドのLEDの並木道、フラワーアーティストのニコライ・バーグマンのツリー、KITTEの白いクリスマスツリーなどいろいろあった。
冬の夕暮れは秋にも増して寂しいので、せめては人工のイルミネーションで一年の終わりを盛り上げてくれるのはありがたいことだ。LEDの発明も役に立っている。
それでは「冬木だち」の巻の続き。
二十三句目。
歳暮の飛脚物とらせやる
保昌が任もなかばや過ぬらむ 几董
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には藤原保昌のこととしている。ただ、俳諧だし、伝承に基づく本説付けでないなら、かならずしも藤原保昌のこととする必要はない。漠然と古代の受領くらいに理解すればいいのだろう。
飛脚はウィキペディアによれば、
「当初は専ら公用であった。律令制の時代には唐から導入された駅制が設けられていた。京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗り継いだ。重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられた。「飛駅」には「駅鈴」が授けられた。律令制の崩壊に伴い駅制も廃れてしまったが、鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚(ろくはらひきゃく)などが整備された。」
というのが飛脚の起源のようだ。
最近になって言われるようになったことだが、古代の街道は幅12メートルの舗装道路で、ほぼ一直線に作られ、曲がるときもゆるくカーブするのではなく角度をつけて曲がる。おそらく祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなステアリングのない四輪者を走らせることを前提に設計されたのであろう。
駅はだいたい四里ごとに設けられ、そこに馬が置かれていた。
『更級日記』の行徳の太日川を渡る場面に、「つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。」とあるから、当時の貴族は舗装された駅路を牛車で旅することができたのであろう。
飛脚というと江戸時代の飛脚を連想するが、古代にも駅路を馬で乗り継いで手紙を配達する使者がいて、鎌倉時代には「飛脚」という言葉も登場したようだ。
「任もなかば」とあるが、ウィキペディアによれば国司の任期は「6年(のちに4年)」だそうだ。
二十四句目。
保昌が任もなかばや過ぬらむ
いばら花白し山吹の後 蕪村
どうやら「イバラ」という植物はないようで、とげのある低木を一般にそう呼ぶのだそうだ。ここではノイバラのことだろう。五月から六月(新暦)に白い花が咲く。確かに山吹より後だ。
二十五句目。
いばら花白し山吹の後
むら雨の垣穂とび越スあまがへる 几董
山吹に蛙は付き物だが、ノイバラの季節ならアマガエルということになる。
二十六句目。
むら雨の垣穂とび越スあまがへる
三ツに畳んで投(は)ふるさむしろ 蕪村
急に雨が降りだしたから、昼寝用に敷いていた筵を三つに畳んで放り投げる。
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