2017年12月21日木曜日

 昨日今日と夕暮れの空に三日月が見えた。正確には昨日のが十一月三日の三日月、今日のは四日の月。
 暮れも押し迫ってクリスマスも近いが、世間では今年はクリスマス感がないとの声もあるようだ。ハローウィンで盛り上がりすぎたせいか、ハローウィン疲れがあるのかもしれない。
 それはともかく「詩あきんど」の巻の続き。
 八句目。

   恥しらぬ僧を笑ふか草薄
 しぐれ山崎傘(からかさ)を舞  其角

 京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。
 唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。

 「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」

 ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。
 若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。

 九句目。

   しぐれ山崎傘を舞
 笹竹のどてらを藍に染なして   芭蕉

 ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。
 遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。
 さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。

 十句目。

   笹竹のどてらを藍に染なして
 狩場の雲に若殿を恋(こふ)   其角

 これはホモネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。

 十一句目。

   狩場の雲に若殿を恋
 一の姫里の庄家に養はれ     芭蕉

 雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。

 十二句目。

   一の姫里の庄家に養はれ
 鼾名にたつと云題を責けり    其角

 芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。

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