昨日雪が降ったのか、今日の富士山は雪をかぶっていた。前は南は少なく北は多く、斜めに雪が積もっていたが、今日の雪は平行で絵に描いたような富士山だった。
今日は旧暦九月の二十一日で、確実に冬に近づいている。
鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)には『芭蕉最後の連句、解説』という、「柳小折」「牛流す」「猿蓑に」「白菊の」の四つの歌仙を収めたPDFをアップしたのでよろしく。古典文学関係の連歌の下の方にあります。
さて、『芭蕉書簡集』(萩原恭男注、一九七六、岩波文庫)の元禄七年九月二十三日付の意専(猿雖)・土芳宛の書簡に、この句が最初に登場する。
秋暮
この道を行人なしに秋の暮 芭蕉
二日後の曲翠(曲水)宛書簡にも、この句は登場する。
「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に
秋の夜を打崩したる咄かな
此道を行人なしに秋の暮
人声や此道かへる共、句作申候。」
と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。
この別案についてはその後各務支考の『笈日記』(やぶちゃんの電子テキストより引用)に、
「廿六日は淸水の茶店に連吟して、泥足が集の俳語あり。連衆十二人。
人聲や此道かへる秋のくれ
此道や行人なしに龝の暮
此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、是に、所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。爰にしるさず。」
というように記されている。
人声やこの道かへる秋のくれ
この道や行人なしに秋の暮
の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
これは支考が後から書いたもので、興行の時にはすでに「此道や」の形になっていたが、多分どっちが良いか尋ねられた時にはまだ「此道を」の形だったのではないかと思う。
芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。
半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際には連衆は十人だった。もしかしたら主筆を含め、句を詠まなかった二人がいたのかもしれないが、確証はない。
さて、この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、
人声やこの道かへる秋のくれ 芭蕉
の句で、取り残された自分を描いたのが、
この道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句になる。
人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。
人声やこの道かへる秋のくれ 芭蕉
私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
それに対し、
この道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。
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