今日は旧暦の九月二十八日。夜明け前の空には逆さの三日月が見えた。二十八日の月は昔は何と呼んでたのかよくわからない。特に名称もなかったのか。
今年は閏五月があるということで、奇しくも芭蕉のなくなった元禄七年と重なるということもあって、ずっと元禄七年の芭蕉と重ね合わせてみてきた。
九月二十六日は清水の茶店で泥足らと「此道や」の半歌仙を巻いた。二十七日には園女亭で「白菊の」の歌仙を巻いた。そしてこれが芭蕉の最後の俳諧興行となった。
九月二十八日は畦止亭に芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人が集まり、七種(ななくさ)の恋を詠んだ。芭蕉の句は、
月下送児
月澄むや狐こはがる児の供 芭蕉
この日、次の日(九月二十九日)に予定されていた芝柏(しはく)亭での俳諧の発句として、
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
の句を詠んでいる。
発句を事前に主人に知らせておくことは中世連歌の時代から普通に行われていたようだ。「此道や」の句も、九月二十三日の書簡で既に作られていたことが確認されている。
「秋深き」の句は一般には、
秋深し隣は何をする人ぞ 芭蕉
の形で知られている。前者は支考の『笈日記』、後者は元文三年(一七三八)の野坡等編『六行会』に収録させている形で、おそらく「秋深き」の方が正しく、「秋深し」は伝わってゆくうちに変ってしまったものと思われる。桃隣編の『陸奥鵆』(元禄十年)にも、
大阪芝柏興行
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
となっている。
芝柏も大阪の人で、其角編の芭蕉追善集『枯尾花』には、
石たてて墓も落ちつく霜夜哉 芝柏
の句がある。芭蕉の発句は前日できていたものの、この興行は行われなかった。おそらく芭蕉の体調の悪化によるものだろう。
秋も深まると寂しかったり悲しかったりで、何となく人恋しくなり、隣の人のことが気になったりする。お隣さんも同じようにこの秋の深まる中、同じような気分になってるのだろうか。
興行の句としては、「隣」は集まった連衆のことに他ならず、みんなそれぞれ自分の隣に座っている人を見ながら、秋が終わるのがやはり悲しいかい?そうだろうな、なんてそんな情景を期待したのだろう。
これが「秋深し」になると、本来の興行から引き離されて一人歩きすることになる。「秋深き隣」だと「秋も深まる中でお隣さんは」と繋がるわけだが、「秋深し」と切ってしまうと単に「秋も深まった!隣は‥‥」と暮秋と隣人が分離されてしまい、近代俳句で言うところの二物衝突になってしまう。ちなみに「し」も「ぞ」も切れ字だから、切れ字が二つになってしまう。
この句はちょうど筆者が子供の頃、つまり七十年代にはマスコミ関係でよく用いられた。つまり、高度成長期を経て様々な地方から大都市へと人口が流入した結果、隣近所との人間関係が希薄になり、それを象徴するかのような言葉として芭蕉のこの句が盛んに引用された。木枯し紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった頃だった。
それは芭蕉が思いもしなかった用いられ方だったのだろう。そのせいでこの句は、隣近所への無関心の句というイメージが広まってしまった。
本来の意味だと、「秋深き隣は何をする人ぞ?」「俳諧に決まってるじゃないか!」という乗りだったのかもしれない。芝柏の脇が残ってないのが残念だ。
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