2017年11月14日火曜日

 昨日は十六句目まで一気に進んだが、実は十七句目になって、つまってしまった。その十七句目。

   塩飽の船のどつと入り込
 散花に幕の芝引吹立て        畦止

 問題はこの「芝引」で、『校本芭蕉全集第五巻』の中村俊定さんの註釈も、「太刀の鞘尻の刃の方に伏せた金具のことであるが、解し得ない。吹く風に幕のあいだから芝引が見えるという意か。」とやはり満足な答が出なかったようだ。
 確かに「芝引」で検索すると、刀の鞘の下側の金具が「芝引」で上側は「雨覆」というらしい。「火縄銃の台座の先端」というのもあったが、それでも意味不明。
 「幕」という言葉は芝居を連想させるので、何か芝居用語に「芝引」ってないかと思って探したが、やはり見つからなかった。
 似たような言葉でようやく見つかったのが柴引で、「もしかして:柴引」。
 「柴引」は神楽の演目で、太玉命が天の香久山の榊を引き抜いて、天の岩屋の前に飾る踊りで、客席とのあいだで榊の枝を引っ張りっこをするのが一番の見せ場のようだ。
 散る花の頃に幕を開けた神楽の柴引に風が吹いて桜の花びらが舞い、秋には豊作となり米を満載にした廻船がどっと押し寄せる、これもかなり無理矢理だが、意味が通らなくもない。
 米を乗せた「廻船」が秋のイメージなので、それを花の定座ということで無理に春に転じようとすると、向え付けか違え付けになりやすい。今のところ他にいい解釈が思いつかないので、とりあえずこれにしておこう。

 挙句

   散花に幕の芝引吹立て
 お傍日永き医者の見事さ       酒堂

 「お傍」は中村俊定註に「高貴の人の側に侍るの意」とある。高貴な人なら「芝引」は刀の鞘の金具に取り成してもいいのかもしれない。「幕」も芝居の幕ではなく陣を張る時の幕としてもいい。高齢のお殿様で、いつも側に医者を侍らして、この半歌仙の一巻も目出度く終わる。
 酒堂も医者だから、芭蕉さんの側には私がいますというメッセージか。肝心な時にはいなかったようだが。

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