2017年11月26日日曜日

 十月十日。結果的に最後の句となった「清瀧や」の句を詠んだ次の日にはこうある。

 「此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたためしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曽塚の旧草にかへる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.87)

 「身ほとをりて、つねにあらず」つまり異常な発熱があったというが、これは腫瘍熱であろう。腫瘍熱の場合40度を超える熱でも朦朧とした状態にならず、意識がはっきりしているという。
 実際この高熱の中で芭蕉は去来と話をしたり支考に遺書三通を書かせたりしている。そのうち一通は自分で書いたというから、これまでになく元気な状態だともいえる。
 この時も門人たちと話す話題はやはりは俳諧だった。

 「夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍〔る〕らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし。唇を打うるほし打うるほしやや談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)

 「此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。」というのは、芭蕉がまだ二十歳そこそこの頃、伊賀藤堂藩家の料理人をしてた頃、藤堂家の跡取り息子だった藤堂主計良忠(俳号、蝉吟)に誘われて俳諧の道に入って以来今に至る三十年、俳諧は様々に変化していったことをいう。
 貞門から談林、天和の破調を経て蕉風確立期がありその後の軽みへと至る流れが一方にあって、大阪では伊丹流長発句の流行から、従来の談林に蕉風の要素も取り入れながら独自の大阪談林を形成してゆく流れがあった。この二つの流れは今日の関東と関西の笑いの違いの元となっているのではないかと思う。「松茸ゆうたら熱燗やな」は大阪談林で、「送られてきた松茸ってよくわからない葉っぱがくっついてたりするよね」だと蕉門の笑いだ。
 私見だが、蕪村の俳諧は蕉門よりもその土地柄からか、大阪談林を受け継ぐものだったのではないかと思う。
 「しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず」というのは書への例えだろう。楷書は真書ともいう。貞門の真書、談林の草書、そして自ら確立した蕉風を行書に喩えていると見て良いだろう。
 「その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし」というのは、その三つの体がどれも完成には至ってないという意味か。この後の俳諧はそれぞれが完成に向かうということか。これを枕元で聞いた惟然が草書の俳諧に至るのは、この五年くらい後のことだ。

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