2017年11月25日土曜日

 今日は旧暦十月八日。元禄七年なら住吉詣でと病中吟の日だ。

 その住吉詣での翌日、十月九日、支考の『前後日記』にはこうある。

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉   翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 「大井川」は支考の記憶違いか。元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、

 清滝や波に塵なき夏の月   芭蕉

の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
 清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。まあ、清滝川といった場合は、嵐山の桂川よりは上流の細い流れを想像すればいいのだろう。
 細い清流だとすると月を映すにはやや無理がある感じがするから、大井川のほうがイメージしやすい。だから、ひょっとしたらその後上五を「大井川」にしたバージョンがあったのかもしれない。
 芭蕉が末期癌だったとしたら、昏睡状態と激痛や嘔吐、下血に苦しむ状態とが交互に訪れていただろう。当時はモルヒネもなかったからさぞかし苦しかったに違いない。点滴もないから栄養も取れず、日に日に衰弱してゆくのが自分でもよくわかっただろう。そろそろ終わりだと感じていたはずだ。
 今日で終わりかもしれないと思いながら、また目が覚め次の日があって、でもそんな時に頭に浮かぶのは仏道ではなくやはり俳諧だった。
 昨日は最後になるかもしれないと思いながらも、句を案じるのは煩悩で成仏の妨げにしかならないし、それに辞世を詠むほどたいそうな身分でもないなんて思いながら、実質的には辞世のような「病中吟」を詠んだ。
 今日になった気になったのは、多分最後の俳諧興行になるかもしれない園女亭での発句、

 白菊の目に立てて見る塵もなし  芭蕉

の句が、六月に野明亭で詠んだ句に似ていて、等類だの同巣だの言われるのが不本意に思えたのだろう。
 そこで、古い方の句を、

 清滝や浪にちり込青松葉     芭蕉

にしてみた。妄執とは言いながらも、やはり思い残すことなくすっきりした気持ちで死を迎えたかったのだろう。
 並みに月の美しさは、ある意味では古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。むしろ「白菊の」の句を救うための改作だったのだろう。
 結果的にはこれが最後の句となったので、「清滝や」の句が芭蕉の辞世の句だと言う人もいるが、それは「辞世」の意味をわかっていない。ただ最後に詠んだ句を機械的に辞世と呼ぶのではない。辞世はこの世を去るにあたっての最後の「挨拶」であり、「清滝や」の句にはそれがない。
 「此事は去来にもかたりをきけるが」とあるように、このことは『去来抄』にも記されている。

 「清瀧や浪にちりなき夏の月
 先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P.13)

 「旅に病で」の句にしても「清滝や」の句にしても、芭蕉は「仏の妄執」だというが、実際に激痛に襲われて苦しんでいる時には、俳諧のことを考えることでその苦しみが紛れる部分があったのだろう。
 凡庸な男ならいい女のことでも考える所だが、芭蕉さんは俳諧のことを案じるのが一番のだった、そこが凡人と違う所だろう。

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