一昨日が十三夜だったから昨日は十四夜で今日は十五夜。別に十三夜に劣るわけではない。満月は明日らしい。
昼は世田谷の方を散歩した。世田谷線の猫の電車を見た。経堂は農大の収穫祭で盛り上がっていた。後藤醸造の経堂エールを飲んだ。行列の出来るたい焼き屋の隣にある。
鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の方には「猿蓑に」の巻をアップした。「牛流す」の巻の六句目がないのに気づき、それも加えた。
今日はまた連歌の付け筋に戻ってみようとおもう。
今の連句では句が付かなくても誰も問題にしないし、むしろ付いてはいけないと思っている節もあるから、付け筋なんて誰も興味はないのかもしれない。
しかも、今は興行ではなく、ネットでやる場合でも一日一句くらいのペースでやっているから、句をその場ですばやく即興で付けるということをしない。
かつては興行の場で、特に古い時代は百韻が普通だったから、みんなが考え込んでしまって先に進まなくなる事を嫌った。だから、付け筋をいくつか覚え、さして内容の意味の深さにはこだわらず機械的に句を付けて切り抜けることも大事だった。いわゆる「遣り句」ができて一人前という世界だ。芭蕉も三十六句遣り句でもいいと言っている。
梵灯の『長短抄』の「救済、周阿一句付」と呼ばれる、前句付け的な遊びに、
春夏秋に風ぞかわれる
雪のときさていかならむ峯の松 侍公
花の後青葉なりしが紅葉して 周阿
の句がある。「侍公」は救済(きゅうせい)の別名。
「春夏秋」に対して冬の雪のときを持ってきて、意味の上できちんと通じるようにするのは違え付けになる。
これに対し、「春」に「花」、「夏」に「青葉」、「秋」に「紅葉」を付けるのは四つ手付けになる。こういう付け筋を理解していると、難しい前句をふられても、すぐに付けることができる。
『去来抄』にある芭蕉の、
ぽんとぬけたる池の蓮の実
咲花にかき出す橡のかたぶきて はせを
は秋の蓮の実から花の定座に持ってゆくつけ方で、秋に春をつけるため、基本的には「違え付け」か「相対付け」になる。
対句的な「相対付け」ではなく、「違え付け」にする場合、上句下句合わせて意味が通るようにするには時間の経過を句に盛り込まなくてはいけない。この場合は「かたぶきて」が春から秋までの時間の経過を表す。
くろみて高き樫木の森
咲花に小き門を出つ入つ はせを
の句も同様だ。この場合は時間ではなく「出つ入つ」が空間の移動を表すため、樫の木の森と咲く花を共存させることができる。
救済の「雪のときさていかならむ峯の松」の句も、春夏秋に対して「さていかならむ」とすることで、これからの時間の経過を表している。
一條兼良の『筆のすさび』では、この、
春夏秋に風ぞかわれる
雪のときさていかならむ峯の松 侍公
の句が、
春夏すぎて秋にこそなれ
雪の比またいかならん峯の松 救済法師
になって、別の付け句を試みている。多分、当時は紙が高価だったため、口承で伝えられた句を記すことが多く、こういう異同が生じたのであろう。
兼良の付け句は、
春夏すぎて秋にこそなれ
実をむすぶなしのかた枝の花の跡
毛をかふるしらおの鷹のとやだしに
都出て幾関こえつ白河や
の三句だ。
「実をむすぶ」の句は「春夏すぎて」に「花の跡」、「秋にこそなれ」に「なし」と四つ手に付いているから、周阿の句に近い。
「毛をかふる」もまた鷹の換羽を「秋にこそなれ」に付けている。
「都出て」は、
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能因法師
を本歌とした付けになる。
他の付け筋はないだろうか、ここでもう少し考えてみよう。
たとえば「咎めてには」で付けられないだろうか。
春夏秋に風ぞかわれる
なべて世はうつろふものと心せよ
「春夏秋」の時間に対し空間に違えて付けられないか。
春夏秋に風ぞかわれる
もろこしもやまとも人はそれぞれに
周阿の「花の後青葉なりしが紅葉して」を「花」「青葉」「紅葉」をそれと言わずに匂いで付けられないか。
春夏秋に風ぞかわれる
酒を酌み涼みし木々も空見へて
別に句としての優劣というのではなく、本来連歌というのはいろいろな展開の可能性を試すゲームだったのではないかと思う。
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