LGBTに限らず多様性が経済に与える影響を考えた時、おそらくミクロ的には様々な非効率の元になるが、マクロ的にはプラスになる、生産性の向上に役に立つと考えればいいのではないかと思う。
生産性というと、多くの人は大量生産大量消費を想像するかもしれない。しかし、アイテムを絞り込んでの均一な大量生産は、それを求める人には安い商品を効率よく供給できるが、そうでない人はいつまでも無消費の状態に置かれてしまう。消費全体が伸びないため、やがて生産過剰に陥り、恐慌を引き起こす。
消費全体を拡大するには、多様なニーズに応じた多様な商品が必要になる。少数のニーズにあった商品を大量に作るには、市場全体の拡大が必要とされる。
第二次大戦までの帝国主義の時代には、これを国境の変更、つまり侵略と植民地化で解決しようとしていたが、それは悲惨な戦争によって打ち砕かれ、戦後はむしろ資本が国境を越えグローバル経済を作ることで解決してきた。国境を越えられなかった資本は戦争を起こすしかなかったが、国境を越える資本は戦後の長い期間にわたる平和をもたらした。これによってレーニンの帝国主議論は過去のものとなった。
資本だけでなく、流通や情報伝達のグローバル化も必要だった。インターネットの普及は少量生産少量消費に更に有利な条件を提供し、従来の大量生産大量消費ではカバーできなかったロングテール市場を生み出し、拡大させている。
多様性が必要なのは、たとえば極めて稀な病気の治療薬は、開発しても大量に売ることができないという問題の解決にも繋がる。その治療薬の原料や生産工程が他の商品と共有できれば、それによってコストを抑えることができる。それには多種多様なものが生産されていればいるほど、それは見つけやすくなる。
LGBTはその独自な発想力と独自な消費によって、生産性の向上に貢献することは間違いない。
日本の場合、近代化の以前の段階で既に消費の細分化が起きていた。例えば芭蕉の時代にたくさん出版された俳書を考えてみればいい。俳諧は当時の人気のある娯楽だったとは言え、それほど大量に売れたとは思えない。
しかし、この少量生産には木版印刷がちょうど良かった。日本は韓国のような金属活字の文化を持たなかったし、壬辰・丁酉倭乱(朝鮮出兵)の時に活字を持ち帰ったと言うが、ほとんど活用されることはなかった。
江戸前期に庶民の間に書物の需要が広がった時、限られた経典を大量に印刷するよりも、むしろ多様な書籍を少量印刷する方向に向かった。それには木版印刷の工房がいくつもできてそれぞれの工房で職人達が腕を振るい、多様な出版物に対処する方が良かった。日本で量産されたのは活字でも本でもなく木版職人だった。この基礎があったからこそ浮世絵の文化も生まれた。
このことはやがて近代化する際にも豊かで多様な消費文化の基礎ができているという強みがあった。先に消費の多様化があって、あとからそれに大量生産大量消費のシステムが導入されたことが、短期間で生産の近代化を達成できた要因だったのではないかと思う。
トヨタ自動車のリーン生産方式にも、江戸時代の木版工房の経験が様々に形を変えながら引き継がれているのではないかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿