西の方では水害で被害が出ている。京都の桂川も危ないようだ。
これまで幻住庵記、嵯峨日記と見てきたが、それに先行するものとして、「十八楼ノ記」をちょっと見ておこうと思う。
貞享五年の夏、明石で『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は、途中山崎に寄り、
有難き姿拝まんかきつばた 芭蕉
の句を詠み、京で杜国と別れ、岐阜妙照寺の住職の己百に誘われて岐阜へ行き、妙照寺に滞在する。
しるべして見せばや美濃の田植歌 己百
美濃の田植歌を御案内しますという発句に芭蕉は和す。
しるべして見せばや美濃の田植歌
笠あらためん不破の五月雨 芭蕉
それでは不破の関を越える時の五月雨に備えて笠を新調しましょう。
そして岐阜に着くと、
その草庵に日ごろありて
宿りせん藜の杖になる日まで 芭蕉
と長居をきめこむ。藜(あかざ)は昔は食用にされてきた。筆者も子供の頃藜の味噌汁を食べたが、そういえば今は亡き父は岐阜の人だった。また、『野ざらし紀行』の旅で名古屋の桐葉と別れる時、
牡丹蕊深く分け出る蜂の名残哉 芭蕉
憂きは藜の葉を摘みし跡の独りかな 桐葉
という句を交わしているから、藜を盛んに食べていたのは中京地区だけだったのかもしれない。
そんな中で五月中旬、加嶋氏の鷗歩の水楼を訪ね、「十八楼の記」という短い文章を書く。
「十八楼ノ記
みのの国ながら川に望て水楼あり。あるじを賀嶋氏といふ。いなば山後に高く、乱山両に重りて、ちかからず遠からず。たなかの寺は杉の一村にかくれ、きしにそふ民家は竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引はへて、右にわたし舟うかぶ。里人の行かひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるをのがさまざまも、ただ此楼をもてなすに似たり。暮がたき夏の日もわするるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もややちかく、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見もの也けらし。かの瀟湘の八つのながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。若此楼に名をいはむとならば、十八楼ともいはまほしや。
此あたり目に見ゆるものは皆涼し ばせを
貞享五仲夏」
先ず場所を特定し、その主人について簡単に触れる。この順序は「幻住庵ノ賦」よりも完成稿の「幻住庵記」に近い。
そして付近の山を描き、その近辺の眺望を描いていく所も「幻住庵記」に似ている。
いなば山は今では金華山と呼ばれている。古くからここには城があり、斉藤道三や織田信長がいたことでもよく知られている。その岐阜城は徳川家康によって廃城とされたから、芭蕉の時代には尾張藩主所有の山となり、立ち入りが禁止されていたという。
「たなかの寺は杉の一村にかくれ、きしにそふ民家は竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引はへて、右にわたし舟うかぶ。里人の行かひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるをのがさまざまも、ただ此楼をもてなすに似たり。」という景色の描写も、住民の生活感を出すあたりが「幻住庵記」の、「城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」に通じるものがある。
このあと岐阜の夏の景物、鵜飼舟が登場する。これははずせない。
そして最後にこの水楼の命名になる。画題にもなっている中国の瀟湘八景、そしてそれに西湖十景を加えて「十八楼」と名付ける。
最後に一句。
此あたり目に見ゆるものは皆涼し ばせを
見るもの全てが涼しげだと最上級のヨイショで主人の加嶋氏の鷗歩をもり立てて終る。
芭蕉のこの句はちょっと前何かのコマーシャルで使われてたと思ったが、思い出せない。
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