今日も晴れて夏らしい一日だった。
それでは『嵯峨日記』の続き。
「一、四日
宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。
明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
五月雨や色帋へぎたる壁の跡」
さていよいよ芭蕉の落柿舎滞在もこれが最後の日となる。三日の夜は曾良と朝まで話し込んで、相当酒も入っていたのだろうな。四日は一日ぐっすり寝たようだ。時折目が覚めてもやはり起き上がれず、昼から雨がやんだことくらいは覚えているようだ。
曾良の『近畿巡遊日記』には、
「一、四日 未ノ刻雨止 夕飯過テ久我ニ趣 梅津ノ渡リヲ越テカツラ(桂)ノ里ヲ過 日暮 夜ニ入テ一定ニ着 道蛍火多シ 三ヶ月ニ色ヲアラソフ蛍哉」
と、ある。久我は桂川を下ってった方にある、伏見区久我本町のあたりか。「梅津ノ渡リ」は四条通のあるところで、川の向こうは松尾大社だ。「一定」は人名か。途中蛍がたくさん飛んでいたので一句。
三日月に色をあらそふ蛍哉 曾良
さて、その頃芭蕉はというと、狭い部屋の奥や入口を見回し、さながら自宅警備か。そこで一句。
五月雨や色帋へぎたる壁の跡 芭蕉
壁に貼ってある色紙がはがれ、そこだけ日焼けしていない新しかった頃の壁の色が見える。キャンディーズの『微笑がえし』(阿木燿子作詞)の「畳の色がそこだけ若いわ」の心か。
実際は二週間程度のそんなに長い滞在ではなかったから、壁の色を変えるほどのものではなかっただろうけど、何か長い時の経過を感じさせる。
芭蕉は『奥の細道』の旅のとき、平泉で、
五月雨や年々降りて五百たび 芭蕉
の句を詠んでいる。五百年の風雪を鞘堂を作ってしのいできた光堂の姿に、その年月の遥かさを思っての句だ。
やがて『奥の細道』の清書の段階で、つまり落柿舎滞在の翌年の元禄五年であろうか、この句はよく知られた、
五月雨の降残してや光堂 芭蕉
の句に姿を変える。
光堂の歴史に重みには遠く及ばないが、落柿舎を跡にするとき芭蕉が見たのは、五月雨の降り残してや色紙の裏だったのだろう。この色紙を見たときのイメージからやがて「五月雨の降残してや」の言葉が生まれたのかもしれない。
このあと芭蕉は小川椹木町にある凡兆宅に移る。二条城の北の椹木町通のあたりか。二条城の東の小川通の交わるあたりか。ここでまた、京都の門人を交えて、曾良に京都案内などをやって楽しく過ごすことになる。
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