思うに理性というのは一種の計算機だと思う、AIのようなもので、使う人次第でどうにでもなる。
何が計算機を用いるかというと、結局それは太古より進化の過程で獲得した様々な本能、欲望、情動、感情であり、それは古いものから新しいものまで幾重にも層を成し、一筋縄ではいかない。
そうした衝動によって理性は突き動かされ、ひとたび理性が一つの決定を下すと、それに反する衝動を全て抑制しようとする。良い衝動に動かされるときもあれば、悪い衝動に突き動かされることもある。ナチスの狂気も、オウム真理教の狂気も、ある意味理性的であり、理性を動かす衝動次第で、とんでもないことになるということなのだろう。「汝なし得る」という実践理性の定言命令も、そこに限界がある。
社会主義も常にそうした危険と隣り合わせにある。オウム真理教をイスラム原理主義と同様に反米闘争(反資本主義闘争)の英雄に祭り上げるような動きがあるなら、警戒しなくてはならない。
理性は良いも悪いもそれを動かす衝動次第だということを肝に銘じよう。
さて、「破風口に」の巻の続き。
漢詩としても、
煮茶蠅避烟
合歡醒馬上
とするよりは、
合歡醒馬上
煮茶蠅避烟
の方が納まりがいいから、俳諧のルールに従って、第三だから上句を付けたと見ていいだろう。
では四句目。
合歡醒馬上
かさなる小田の水落す也 芭蕉
書き下し文だと、
合歡馬上に醒む
かさなる小田の水落す也 芭蕉
となる。
山間に作られた小さな田んぼが重なり合う棚田の風景だろう。馬上の目覚めに長閑な田園風景を付けた、さっと流すような四句目だ。
五句目。素堂が付ける。
かさなる小田の水落す也
月代見金気 素堂
書き下し文だと、
かさなる小田の水落す也
月代金気を見る 素堂
となる。五句目だから月の定座で月を出す。
ただ、「月代」は普通は「さかやき」と読み、時代劇によく出てくる額を剃り上げた髪型をいう。中国に「月代」という熟語があるのかどうかは不明。
そうなると、ここでは月を詠んだのではなく髪型を詠んだことになってしまうが、多分素堂は「月代」に本来の月の意味があるとして詠んだのであろう。
金気は五行説の考え方で、「金生水」だから、月の金気は水を生じる。
六句目。
月代見金気
露繁添玉涎 素堂
書き下し文だと、
月代金気を見る
露繁玉涎を添ふ 素堂
となる。
「露繁」も「露しげく」という日本語に漢字を当てた感じだ。
「小田の水」は水辺で、「露」は降物だから、式目上は問題ないが、金生水のパターンで、打越は「小田の水」、付け句では「露」というのはやや輪廻のきらいがある。
「玉涎」はそのまま読むと玉のようなよだれで、露の形容としてはあまり綺麗ではない。「玉延」だと山芋のことになる。中国の百度百科に「玉延是山药的别名」とある。山芋に露がしげく降る、となる。
漢詩風の五言とはいえ、やはり俳諧であり、真面目な漢詩ではない。山芋を玉のよだれにする事で洒落てみているのだろう。
なお、ここでは長句に短句を付ける場面なので、順番は入れ替わらない。
二句目、三句目とあわせると、
合歡醒馬上 煮茶蠅避烟
月代見金気 露繁添玉涎
となり、烟と涎で韻を踏んでいる。
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