2018年6月30日土曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 なお、「巳ノ下刻允昌へ寄テ」の允昌は凡兆のこと。去来は俳号で呼んでいるのに対し、凡兆は本名で呼ばれている。今日では一般に野沢凡兆と呼ばれているが、他にも宮城、越野、宮部などの姓もあったようだから、おそらく正式な苗字ではないのだろう。なお「允昌」の読み方を探しているのだが、まだわからない。
 三月二十五日に「カセイテ尋 翁ヲ問」とあるが、この「カセイテ」はひょっとして「加生亭」か。耳で聞いただけで文字を確認できなかったのかもしれない。
 後に凡兆の家を指すのに地名の「小川」というのを頻繁に使っている。
 五月七日のところには「中村荒右衛門入来」とあり、史邦は本名で中村姓を付けて呼んでいる。ただ、この人も大久保荒右衛門、根津宿之助という名前が伝わっているので、正式な苗字かどうかは不明。五月十四日の日記では「中村荒右へ行宿」と名前を省略しているし、翌十五日には「終日史邦ノ宿」と俳号になっている。
 五月十七日には「芝居へ行 翁允昌羽紅荒右無辺佐野治左去来」と芭蕉は「翁」でその他は俳号と本名とごちゃ混ぜだ。
 曾良の日記ではしばしば「田中氏」というのが登場する。場所によっては単に「田中」と書かれている場合もあるが、田中式如という旧知の神道家だという。
 思うに当時は正式な苗字なのか、それとも通名のような「姓」なのかは、ある程度深く付き合ってみなければ判別がつかなかったのだと思う。だからはっきりとわかっている場合以外は「氏」を付けなかったのではないかと思う。あとはその時の気分で本名になったり本名の略称になったり俳号になったり、わりと適当だったようだ。
 曾良の日記に登場する人名も、詳しく追っていけばいろいろなことがわかりそうだ。
 さて、『嵯峨日記』の方に戻ろう。

 「一、三日

 昨夜の雨降つヾきて、終日終夜やまず。猶其武江の事共問語。既に夜明。」

 最初の「一」は特に意味もなさそうだ。翌日も「一、四日」とある。草稿段階での芭蕉さんの気まぐれによるものか。曾良の『近畿巡遊日記』は日付の上に「一、」とあるから、それに倣ったのか。
 雨が降ってすることもなく、久々に旧友の曾良と長々と語り合ったか。『奥の細道』の旅のあとの江戸のことなど、話も尽きず、夜を徹してしまったようだ。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「三日 雨不止 未ノ刻去来帰ル 幻住ノ句幷落柿舎ノ句

   涼しさや此庵をさへ住捨し
   破垣やわざとかのこの通路 夜ヲ明」

とある。芭蕉の文章では昨日から去来が一緒だということが記されていない。頻繁に来ているせいか、いちいち書くのが面倒になったのだろう。ここでの主役は曾良だし。
 曾良のこの二句は、『嵯峨日記』には記されてないが、『猿蓑』には入集している。

 涼しさや此庵をさへ住捨し   曾良

 これは幻住庵の句で、「涼しさの此の庵をさへ住み捨てしや」の倒置。芭蕉の一所不住の生き方は、こんなすばらしく涼しげな庵すら捨ててしまうのかという、その潔さを称える。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、三月二十三日に「大津石屋ニ着 及暮」と夕方に大津に到着し、翌三月二十四日には「早朝木曾寺ノ新庵見ル 帰テ朝飯調テ京ニ趣」とあるから、義仲寺の無名庵は見たようだが、幻住庵に行った様子はない。

 破垣やわざとかのこの通路  曾良

 これは落柿舎の句だろう。垣根が破れているのは、鹿の子が通れるようにわざと開けているのでしょう、というわけだが、多分ただ荒れ果てていて破れていただけだろう。ただの破れ垣も、そういう考え方もあるのかといった句だ。

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