安倍首相が是枝監督のパルムドール受賞に賛辞を送らなかった理由がようやく見えた。監督の方が辞退したからだ。
国民栄誉賞を送るときは辞退されないように事前に打診して、受け取ってくれる人かどうか確認するという。だからあんなに活躍しているのにという人が何で国民栄誉賞を貰わないんだろうという人は、たいていはこの打診の段階で辞退しているという。
賛辞を送る場合もそうした根回しがあり、監督が拒否したため賛辞がなかった、あるいは事前の調査で、そういうものを求めるような人ではないというのがわかっていてあえて声をかけなかったか、そう考えるのが一番自然だろう。
さてそれでは「幻住庵記」の続き。
そしてここで一句、
先づ頼む椎の木も有り夏木立 芭蕉
椎の木に一体何を頼むのかというと、夏ということもあってやはり日影を作ってくれることだろう。
『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、三つの歌が引用されている。
ならびゐて友をはなれぬこがらめの
ねぐらに頼む椎の下枝
西行法師
立ちよらむかげとたのみし椎が本
むなしき床になりにけるかな
『源氏物語』椎本
片岡のこの向つ峯に椎蒔かば
今年の夏の陰に並みむか
詠み人知らず(万葉集)
椎の木の本意は木陰で休むことで間違いない。
それに加えて椎の木に『荘子』の言う「無用の用」の意味も含めていたかもしれない。
芭蕉の時代よりやや後になるが、『和漢三才図会』には、
「凡そ椎の木心は白樫に似て粗く理(きめ)微黒、堅に似て蛙(むし)いり易く屋の柱と為すに堪えず、唯(ただ)繊(ほそ)長き木を用ふ、椽の用と為す、俗に椎丸太と云ふ」
とある。建材には適さないから椽(たるき)として用いるとあり、まったく役に立たないわけではないが、建材としてはあまり上等なものではなかった。
『荘子』「逍遥遊篇」には、
「恵子、荘子に謂いて曰く、吾(われ)に大いなる樹あり。人は之を樗(おうち)と謂う。其の大本は擁腫ちて(ふしくれだちて)縄墨(すみなわ)に中らず(あたらず)、その小枝は巻き曲がりて規(ぶんまわし)と矩(さしがね)に中らず、之を塗ばたに立ておくも匠者(だいく)の顧みるものなし。今、子(きみ)の言(ことば)も大きくはあれど用うるすべ無し。衆の同じく去る所なりと。
荘子曰く、子(きみ)は独りいたちを見ざるか。身を卑めて(かがめて)伏せ、以て敖ぶ(あそぶ)者を候い(つけねらい)、東西に跳梁し、高きところも下きところも避けず、ついに機辟(わな)に中り(はまり)、罔罟(あみ)にかかりて死す。今、かのくろ牛は其の大いなること天に垂れる雲の若し(ごとし)。此れ能(まこと)に大いなれども鼠を執うる(とらうる)ことは能くせず。今、子に大いなる樹ありて、其の用うるすべ無きを患うる(うれうる)も、何ゆえに之を何も無き郷(むらざと)、広漠な野に樹えて(うえて)、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。 」
芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の二上山当麻寺の松を見て、この寓話を思い起こし、「斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ」と記している。
昼は日影を作ってくれる椎の木の「側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。」とすれば、この「幻住庵記」の「いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。」の文章にうまく呼応する。
下五に「夏木立」とあるから、ここでの椎の木は一本ではないのだろう。そして「夏」の季が入ることによって、「涼み」ということが強調される。冷房のなかった時代に夏木立の涼みは、一番贅沢なものだったのかもしれない。
「幻住庵ノ賦」には発句はない。代りに「秋も半(なかば)に過行まま、風景・朝暮の変化とても、又ただまぼろしの住ゐならずやと、やがて此文をとどめて立さりぬ」と、庵を去ってゆく場面で終る。
「幻住庵記」のもう一つの草稿と思われるバージョンには、もう一句、
頓(やが)て死ぬけしきも見えず蝉の声 芭蕉
の句があった。季節が椎の木よりかなり後という感じがする。
結びのところの文章も、「凡西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵に置る、利久が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは一ならむと」と後の『笈の小文』に流用される一文があり、「背をおし腹さすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半に過ぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。」と無常迅速で結び「頓(やが)て死ぬけしきも」の句になる。将棋では終盤のミスで勝つはず試合があっという間にに負けになる事を「頓死」というが。
最終的には秋(七月二十三日)に庵を出たという記述はカットされた。そこでこの句を生かすことができず、「先たのむ」の句一句で落ち着いたのだろう。
最初は『奥の細道』の旅を終え、ここにやってきた所に始まり、庵を出て行くところで終る、長い時間の経過を追う形で書かれていたが、最終的には幻住庵そのものを前面に押し出して、魅惑的なゆる隠棲の一日を描き出す形になった。
前の年の初頭に「猿も小蓑を」の句を詠み、『猿蓑』の編纂の話も持ち上がる中で、俳文の一つの見本のようなものを提起したかったのだろう。そうなったとき、ただ時系列で順々に示してゆく紀行文的な手法ではなく、何か新しいものが欲しかったのだろう。
一つには貞享元年の『野ざらし紀行』以来ずっと旅をしてきた芭蕉が、ここで持病の再発による体調不良により、旅が続けられなくなって、それに代わる何かが欲しかったのかもしれない。
前にも引用した、四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とあるように、持病がなければ四国西国の旅に出ようと思っていたようだ。蝦夷千島の旅よりは現実的な計画ではあった。
結局四国西国の旅も実現しなかったが、体の調子が良くなったらいつかはという思いはあったに違いない。
幻住庵に来て旅の代わりになるものを芭蕉は見つけた。それがゆるい隠棲の記録、修行のためでもなければ世を捨て世からも捨てられた悲壮感もない、平和な江戸時代の新しいスタイルの隠棲、それが芭蕉の見つけた答だったのではないかと思う。
そして、このコンセプトは翌年の夏の『嵯峨日記』に結実してゆくことになった。
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