2018年6月13日水曜日

 横井庄一という懐かしい名前を久しぶりに聞いた。まだ小学生の頃だったと思う。グアム島のジャングルで二十八年間戦争が終ったのも知らずに隠れ住んでいて、一九七二年に発見され話題になった。
 「恥ずかしながら帰って参りました」は当時の流行語になり、テレビのバラエティー番組をはじめ、しばらくの間いろいろな場面でパロディーにされたりし、物まねの定番にもなった。
 後の横井庄一さんのインタビューで、自分の物まねがあちこちでされていることについて、みんな敬礼をしているけどあれは小野田さんの方だと言っていたのが印象に残っている。
 確かに今回話題になっている「ワンピース」の横井さんの絵も敬礼をしている。小野田さんと間違えている。多分、尾田栄一郎をディスっている人も小野田さんと間違えているのではないかと思う。
 横井庄一は自分で服を作ったりしていて、発見された時は裸足でみすぼらしい手製の服を着た姿だった。
 これに対し二年後の一九七四年にフィリピンのルバング島から帰還した小野田少尉は、中野学校出のエリートで、しっかりと軍服を着、銃も撃てる状態に手入れされていた。帰ってきたときには背筋をピンと伸ばし、しっかりと敬礼している。この二人については、グーグルで画像を検索してみるといい。

 それでは『嵯峨日記』の続き。
 曲水の句はもう一句あった。

 「又いふ、我が住所、弓杖二長計にして、楓一本より外は青き色を見ず、と書て、
 若楓茶色になるも一盛    曲水」

 これも元歌がある。

 散はてし桜が枝にさしまぜて
     盛りとみするわかかへでかな
              藤原為家(夫木和歌抄)

 若楓は鮮やかな新緑だし、「楓一本より外は青き色を見ず」とあるように青々としていた。それが茶色になるというのは病葉 (わくらば)だろうか。
 青々とした今を盛りの若楓が和歌なら、それに病葉 (わくらば)が混じってるのを見つけるのが俳諧といったところか。
 弓杖二長は弓二本分の長さという意味で、ウィキペディアによれば、「和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221cm)が標準と定められている」とある。二長は約442cm、442cm四方の部屋ということになれば、十二畳半だが楓一本のある庭も含めてということなら、十畳くらいか。
 さらに、嵐雪からの手紙に発句二句があったようだ。

   「嵐雪が文ニ
 狗背の塵にえらるる蕨哉
 出替りや稚ごごろに物哀

 其外の文共、哀なる事、なつかしき事のみ多し。」」

 『和漢朗詠集』に、

 紫塵嬾蕨人拳手 碧玉寒蘆錐脱嚢
 紫の塵のように物憂げな蕨は人の拳に似ていて
 碧玉のような初春の蘆は錐のように袋を破る

とある。和歌にも、

 武蔵野のすぐろかうちのした蕨
     まだうらわかしむらさきの塵
             藤原長方(夫木和歌抄)

と詠まれている。
 蕨市の名の起源として、

 武蔵野の草葉にまさるさわらびを
     げにむらさきの塵かとぞみる
             慈鎮和尚

の歌がネットに見られるが、出典は不明。歌の内容も『和漢朗詠集』に寄りすぎている感じがする。
 蕨は古来紫の塵に喩えられてきたが、ここでは狗背(ぜんまい)取りをしていると、蕨が混じっていて塵として選り分けられる、とする。
 江戸時代は乾燥ゼンマイが大量に流通していた。池谷和信の「江戸時代から明治初期にかけてのゼンマイ生産」というpdfファイルによれば、「元禄8年(1695)刊行の「本朝食鑑」には、『ゼンマイは近世食すること流行す』と書かれている」という。
 出替りの句は、三月五日に奉公人の入れ替えがあって、半年・一年慣れ親しんだ奉公人が去ってゆけば、年少の丁稚も哀れに思うというもの。人情句だ。

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