2018年6月27日水曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 さて芭蕉はこのあと杜国への思いをぶちまける。

 「誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」

 「夜は床を同じう起臥」のところなど、疑ってくれといわんばかりだ。まあ、あくまで噂なので。
 悲しみの涙には無粋な批評はせず、流すことにしよう。

 さて、翌二十九日と三十日はセットになっている。

 「二十九日 『一人一首』奥州高館ノ詩ヲ見ル。

 晦日 高館聳天星似冑、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」

 奥州高館ノ詩というのは『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集で、古代から江戸初期までの日本の漢詩を一人一首、全三百余の詩を収録している。
 その詩というのは巻九にある。

   賦高館戦場    無名氏
 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中
  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 高館は天に聳え星は兜ににて
 衣川は海に通じ月は弓のごとし
 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり
 弁慶は武威を揮い白波の中
   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

 義経は一切戦わず持仏堂で自害し、弁慶は堂の入口を守り立ち往生したというのが一般によく知られている物語で、口承の詩もそれを裏切らない。
 なおウィキペディアを見ていたら、この選者の林鵞峰とその父の林羅山が編纂した『本朝通鑑』に「俗伝又曰」として「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す」と記載されたことが、後の義経=ジンギスカン説の元になっているという。
 こうした漢詩は口承で伝えられて、庶民の間で吟じられていたのだろう。テキストとしてではなく音楽として伝わっていたと思われる。
 こうした伝承にはありがちなことだが、話がやたらに盛られたりする。
 小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになってしまった。
 芭蕉は無名作者を「古人」と呼んで、立派な作者でも現地に行かなければこういう詩を詠むと思ったようだが、多分そういう問題ではないだろう。
 芭蕉も後世、

 松島やああ松島や松島や

の作者にされてしまうとは想像だにしなかっただろう。
 伝承詩というのは時として何百年もの間形を少しづつ変えながら中国、韓国、日本に伝わった例もある。『野ざらし紀行─異界への旅─』の「十四、僧朝顔」の所でも書いたが、『万葉集と漢文学』(和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院)所収の濱政博司の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」にある一連の詩がそれだ。
 五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

  鼓声推命役 日光向西斜
  黄泉無客主 今夜向誰家

  太鼓の声は賦役へとせきたて、
  日の光は西へと傾いて行く。
  黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。
  今夜は誰の家に向かうのというのだ。

が最初だが、それが六八六年には少し変わっているが、二上山で処刑された大津皇子が詠んだとして『懐風藻』にも載っている詩となる。

  金烏臨西舎 鼓声催短命
  泉路無賓主 此夕誰家向

  黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
  日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
  黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
  この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 それが一四五六年、韓国で成三問が処刑されるときの詠んだとされてきた、

  撃鼓催人命 回看日欲斜
  黄泉無一店 今夜宿誰家

  太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、
  振り返って見れば日は傾こうとしている。
  黄泉の国には宿屋があるわけでもない。
  今夜は一体誰の家に泊ろう。

の詩として登場する。
 この間にも九五○年の江為の詩がある。

 衙鼓侵人急 西傾日欲斜
 黄泉無旅店 今夜宿誰家

 中国版のウィキペディア「維基百科」には、

 「江洪之後。早年避乱迁居建阳(今屬福建)。曾游庐山。由於科場屢試不第,一直怏怏不樂,打算前往吴越發展,結果被同謀告發,被殺身亡。一說是替福州友人草擬降書,被逮獲,慘遭株連。據說臨刑前有絕命詩云:“黄泉無旅店,今夜宿誰家”。」

とある。
 また、『水滸伝』にも、

 黄泉無旅店 今夜落誰家

の句があるらしく、一三九三年の孫蕡の詩にも、

 鼉鼓三声急 西山日又斜
 黄泉無客舎 今夜宿誰家

とある。「維基百科」には、

 「洪武十五年复起为苏州经历,洪武二十二年谪戍辽东,是年以黨禍被殺,年五十六岁,有絕命詩:“鼍鼔三聲畢,西山日又斜。黄泉無旅店,今夜宿誰家。”另說於洪武二十六年之藍玉案被殺。」

とある。
 これらは皆伝説であり、あくまで有名人に仮託されただけで、いわゆるパクリではない。

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