今日も暑かった。夜の満月はやはり雲が掛かってぼんやりと周りの雲がオレンジに染まっている。最近では夏至の頃の月をストロベリームーンと呼ぶようだ。
今日は対ポーランド戦。ポーランドといえばMerkfolk、Netherfell、Morhana、Stworz、Alne、Percival Schuttenbach、メタルの国だ。
さて、『嵯峨日記』も五月に入る。
「朔
江州平田明昌寺李由被問。
尚白・千那、消息 有。
竹ノ子や喰残されし後の露 李由
頃日の肌着身に付く卯月哉 尚白
遣岐
またたれつる五月もちかし聟粽 同」
江州平田明昌寺は近江国、彦根平田にある明照寺だという。音が同じの違う字を書くことは、芭蕉の文章では珍しくないし、当時の人はそれほど字面にこだわらず、音が合っていれば良いというところもあった。
明照寺は光明遍照寺の略と思われる。
李由はその明照寺の十四世住職で、この日落柿舎に現れて、尚白や千那といった近江の門人の消息を伝えたようだ。尚白は大津で医者をやっている。千那は堅田本福寺十一世住職。
千那の句はない。
竹ノ子や喰残されし後の露 李由
竹の子が食い残されればそのまま成長して立派な竹になり、秋の露を得ることになる。
乳幼児の死亡率の高かった時代には、年を取るまで生きられるということは当たり前のことではなく、稀なことだった。
李由は寛文二年(一六六二)の生まれで、元禄四年(一六九一)五月一日には数えで三十。働き盛りではあるが、体力的には衰えてきて露を得る頃か。当時は四十だと初老で、露というよりも霜を得る頃であろう。
頃日の肌着身に付く卯月哉 尚白
肌着は肌衣(はだぎぬ)、つまり襦袢のことか。ウィキペディアによると、「江戸時代前期は長襦袢ではなくこちら(半襦袢)が正式な襦袢と考えられていて、初期の半襦袢は袖の無い白地のもので腰巻と一揃で使われていた。」とある。
旧暦四月ともなると暑い日も多くなり、半襦袢が汗で肌に密着するということか。
遣岐
またたれつる五月もちかし聟粽 尚白
前書きの「遣岐」よくわからないが、「聟粽」とあるから、岐阜に住む娘婿に粽(ちまき)を届けるために出す遣いの者ということか。尚白の家族関係はよくわからないので、岐阜に親族がいるのかどうかは不明だが。
まあ、でもこの句は五月五日の端午の節句の粽を待っている人がいるのは確かだ。
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