2018年6月7日木曜日

 「幻住庵記」の続き。

 「昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、『猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ』など、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」
 幻住庵滞在中、芭蕉の門人も多数訪れている。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 「七月中、出庵までに来庵の人々─。尚白・木節・智月・昌房・何処・越人・洞哉。金沢の北枝より蓑、膳所の扇女より薬袋、京の羽紅より発句が届く(

『猿蓑』所収「几右日記」)。

とある。
 四月には野水も訪れている。
 その他にも八幡宮の宮守や近所の農夫などが尋ねて来たりしたようだ。猪に田んぼが荒らされただとか、豆畑の兎にやられただとかいう話は、農家の人にとっては「あるある」なのだろうけど、芭蕉には馴染みのないものだったようだ。
 芭蕉は農人の生まれとはいえ、数えで十三の頃から伊賀藤堂藩に奉公し、料理人を務めたりしていたし、江戸に出てきてからはずっと都会暮らしだったから、あまりあまり百姓事情には詳しくなかったのだろう。
 ただ、こういう雑談も多分無駄に聞いてたのではなく、後の軽みの俳諧のヒントにしていったのではないかと思われる。

   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合せ度芋畑    芭蕉

   上下の橋の落たる川のをと
 植田の中を鴻ののさつく   芭蕉

のような後の句も、百姓との会話の記憶からひねり出した可能性はある。
 隠棲といっても結構尋ねてくる人はいて、そういう意味ではそれほど退屈もしなかったし、寂しくもなかったのだろう。まあ、夜ともなれば人も帰って、月を待つ間は闇に閉ざされる。
 「罔両」は「魍魎」に同じ。ウィキペディアには「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称。」とある。『淮南子』に既にこの用例がある。
 『荘子』には罔両と影との問答がある。元の意味は「影のまわりに生ずる薄いかげ」だったらしい。そこから幽霊や物の怪のようなものを指すようになったのだろう。
 山の中で真っ暗となると、何か出そうな雰囲気になる。暗闇に目を凝らし、物の怪ではないかと是非を案ずる。このあたりは『源氏物語』の夕顔の俤かもしれない。
 昼の絶景や農夫との雑談などのゆるい隠棲生活を語る一方で、夜の不安を対比させホラー感覚へと持ってゆく。なかなか面白い展開だ。

 さて、それではこの「幻住庵記」もそろそろ締めに入る。

 「かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。

 先づ頼む椎の木も有り夏木立」

 別に閑寂を好んでこの山に入ったのではなく、ましてここに骨を埋めようとも思っていない。実際に短期間の滞在で打ち払うことになる。『猿蓑』の「市中や」の巻の二十九句目ではないが、

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

だ。
 ここでの滞在は一つには持病が出たことによる。芭蕉の持病は疝気であり、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎,胆嚢炎あるいは胆石,腸炎,腰痛などが原因となることが多い。」

とある。
 元来胃腸が弱かったのだろう。最期も大腸癌だったと思われる。幻住庵に移って間もない四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とある。『奥の細道』の旅の途中でも度々この持病が出てたし、その後の旅も負担になり、しばし休息するのが最大の目的だったと思われる。
 そして、そんな病身での隠棲は本当に世を厭うて隠棲している人に似てなくもない。ただ、違うのはほんの一時的なゆるい隠棲だということだ。
 そんななかでこれまでの人生を振り返る。
 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」
 これは『笈の小文』の、

 「かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

に似ている。『笈の小文』は未完の草稿で、後の元禄五年ごろに書かれたものだろう。その前身とも言える文章だ。
 「楽天は五臓の神を破り」は白楽天(白居易)の「思旧」という詩の一節「詩役五藏神」から来ている。長い詩なので、いつか暇な時に訳そうかと思う。

   思舊   白居易
 閑日一思舊 舊遊如目前
 再思今何在 零落歸下泉
 退之服硫黃 一病訖不痊
 微之鍊秋石 未老身溘然
 杜子得丹訣 終日斷腥羶
 崔君誇藥力 經冬不衣綿
 或疾或暴夭 悉不過中年
 唯予不服食 老命反遲延
 況在少壯時 亦爲嗜慾牽
 但躭葷與血 不識汞與鉛
 飢來吞熱物 渴來飲寒泉
 詩役五藏神 酒汨三丹田
 隨日合破壞 至今粗完全
 齒牙未缺落 肢體尚輕便
 已開第七秩 飽食仍安眠
 且進桮中物 其餘皆付天

 また「老杜は痩せたり」は杜甫が詩作のために痩せたということを言うらしい。自分なんぞは白楽天や杜甫の賢とは比べようもなく「愚」だが、と一応謙遜し、「いづれか幻の住みかならずや」と幻住庵の名前に掛けて、人生は所詮幻の住みか、人生は夢幻ということで締めくくりにする。
 「思ひ捨てて臥しぬ。」と、先に「夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」と述べたのを受け、今日はもう眠りに落ちる、と結ぶ。

 ここから先は不快に感じる人は読まなくていい。
 まいんさんの『二度目の人生は異世界で』が何やらとんでもないことになっている。
 とはいえ、実のところまいんさんの作品は読んだことがないし、問題になったのはこの小説を書く前の2013年頃の古いツイットのようだ。
 ツイットの内容はいくつかネットで見ることができたが、2チャンネルあたりに普通にありそうな内容だ。まあ、ラノベもアニメも韓国や中国の市場を無視できないから、今回の厳しい処置もやむをえないのだろう。
 まあ、本は出荷停止でも、「小説家になろう」のサイトでは読むことができる。
 印象としては、やはり壊れているな、という感じだ。これは別にけなしているのではない。岩井恭平の『ムシウタ』に出てくる塩原鯱人のような、なかなか良い壊れ具合という意味だ。
 いきなり幼女を蹴飛ばしながら性的な感情がまったくなかったり、二人の女性を救うがほとんど興味なく、殺害に対してもあまり感情を持たない。おそらく物語は、この壊れた主人公の失われた生前の記憶への旅として展開するのだろう。
 まあとにかく、愛国心は理解できるが、作家なら言葉は選んだほうがいい。

 ×これは驚いた。中国人が道徳心って言葉を知ってたなんて!
 ○道徳は老子の道徳教に由来する言葉だが、儒仏老荘の古き良き伝統が共産党の支配によって一度破壊されてしまったのは残念だ。

 ×日本の最大の不幸は、隣に姦国という世界最悪の動物が住んでいることだと思う。
 ○日本の最大の不幸は、恨の国を併合してしまったことだと思う。

 この程度の配慮はしたほうがいい。

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