2018年6月16日土曜日

 一昨日、昨日とついワールドカップの誘惑に負けて『嵯峨日記』の方はお休みしてしまったが、今日もちょっとお休みして、RADWIMPSの『HINOMARU』の歌詞の話でお茶を濁させてもらおうかと思う。
 言葉というのはどういう意味にでも取り成せるもので、それは連句から学ぶことができる。一つの言葉が文脈によって思いがけない意味になるのは、遊びの範囲なら面白いし、それをゲームにした御先祖様の心はこれからも守っていきたい。
 歌の歌詞なんて皆が自由に解釈すればいいじゃないかと言われれば、確かにそのとおりだが、ただ解釈の自由を盾にとって、一つの言葉を切り取って意図的に違う意味を持たせることで印象操作を行ったり、ヘイトでないものをヘイトだと言い立てて反日感情を煽るのに利用したり、ということになると放っておくわけにはいかない。そういうものを見抜く目を養うのも、連句の一つの効用ではないかと思う。
 本当は全部の歌詞を逐一辿っていきたいが、著作権の問題もあるので、そこは大体の流れがわかる程度に留めておこうと思う。全部の歌詞を読みたい人はhttp://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.htmlで読めます。
 先ず冒頭の「風にたなびくあの旗に」だが、昔は祝日になると門の前に日の丸の旗を掲げる家があったが、最近ではほとんど見なくなった。風にはためく国旗の実物をみることは今の日本では滅多にない。
 多分、この冒頭の歌詞から多くの人が思い浮かべるのは、NHKテレビの放送終了時に流す君が代の時に映し出される旗の映像ではないかと思う。
 この曲バックでずっと響くトーーーン、トーーーンというドラムの音も、おそらくこの君が代の盛り上がるところで鳴るドラムの音のイメージがあるのではないかと思う。
 この音は多分、お祝いの時の武装解除を意味する空砲(祝砲)の音なのではないかと思う。学校の運動会の朝に鳴らす打ち上げ花火の音にも似ている。
 風に靡く旗は実際に見るとすれば、あとは競技場であろう。
 『HINOMARU』は前にも書いたようにフジテレビ系のロシアワールドカップのテーマ曲『カタルシスト』のカップリング曲で、テレビの画像から競技場への場面の移りは自然だ。
 そこで「胸に手をあて見上げれば、高鳴る血潮、誇り高く」とサッカーの試合の前で選手達が胸に手を当てて国歌を歌う姿が思い浮かぶ。
 問題なのはそのあとだろう。
 「この身体(からだ)に流れゆくは、気高きこの御国(おくに)の御霊(みたま)」
 実は今ワープロを打って気付いたのだが、「みたま」を変換すると「御霊」という文字がすぐに出てくる。しかし、この文字は「ごりょう」と読むとまったく違う意味になる。意図的か、それともバイアスによってそう読めてしまったのかはわからないが、ここが「軍歌」と言われるようになった重要な部分だったと思う。
 「御国」は「国」に対して敬意を込めた言い方で、戦前・戦中は「お国のために」という言い回しが多くなされたが、「御国」自体には特に皇国だとか帝国だとかを限定して言う言葉ではない。「御」は基本的にただの丁寧語としてあらゆる名詞に付けることができるし、尊敬の意味が込められていても、皇室への敬意に限定される言葉ではない。普通に相手の故郷を尋ねるときに「御国はどちらですか?」と言ったりもする。
 「みたま」も基本的には魂を意味する「たま」に敬意を込めた「み」をつけただけのもので、「みたま」という言葉は仏教でもキリスト教でも用いる。おそらくこの場合は「大和魂」のことだと思われる。この場合の魂は気概というような意味で、アメリカ魂だとか韓国魂だとかいうこともある。特にサッカーでは「ゲルマン魂」という言葉がドイツ代表を形容するのに用いられる。
 ただ、これを「ごりょう」と読むとまったく違った意味になる。もちろん歌でははっきりと「みたま」と発音しているから、ここでは「ごりょう」のことではない。「御魂」と変換していればよかったのだが、そこはあまり考えずに、多分機械的に変換してしまったのだろう。
 御霊(ごりょう)は怨霊と同じで、非業の死を遂げた魂をいう。古来人々はその怨念が天変地異などを引き起こすことを恐れ、神として祀ってきた。御霊神社は全国にあり、靖国神社も御霊神社の系譜を引く招魂社から発展したものだった。靖国神社に祀られている英霊も基本的には御霊で、「英」は本来「はなぶさ」であって、花のように儚く散っていった霊という意味だった。
 『HINOMARU』の歌詞を軍歌だといって告発した人たちは、この部分を皇国の英霊が体の中に流れていると解釈しているが、これは明らかに曲解だ。「御霊(ごりょう)」という言葉は一般にはほとんどなじみがない。文脈からいってもサッカーの応援歌からいきなり靖国の英霊にもってゆくのは唐突過ぎて不自然だ。
 そして、そのあとBメロの「日出づる国の御名(みな)の下に」と続くが、「御名」は天皇の名ではない。
 日本ではまず在位中の天皇を名前で呼ぶことはない。多分「天皇の名は。」と聞いても答えられない日本人も多いのではないかと思う。「御名」という言葉は「神の御名において」というふうに用いられるように、通常はその前に来る言葉の名をあらわすもので、独立で用いられたりはしない。この場合は「日出づる国」という名前に掛けて、という意味。「日出づる国の名のもとに」に丁寧語に「御」とつけただけと見た方がいい。
 「日出づる国」は聖徳太子が隋の皇帝に宛てた親書の中で用いた言葉で、日本が隋に対等な関係を要求し、朝貢しなかったことの証しだが、「日本」という国名とともに日本が太陽の国でありことを意味する。
 この部分だけが歴史的仮名使いなのは簡単な理由で、この言葉は引用だからだ。
 そしてサビへとゆく。前にも書いたように「強き風吹けど」は台風、「遥か高き波がくれど」は東日本大震災の津波を意味し、自然災害の困難な状況をも体に流れる大和魂(日本人としての気概)と日の昇るような勢いで頑張ろう、という意味になる。
 「僕らの燃ゆる御霊は挫(くじ)けなどしない」という文脈からしても、「御霊」は英霊の意味ではない。英霊は非業の死を遂げた怨霊なのだから「僕らの」なんて言葉を冠したりはしない。「僕らの英霊」なんて言葉は聞いたことがない。「僕らの大和魂は挫けなどしない」なら自然な言い回しになる。
 二番は優しき母、父の教えで始まり、そこいから受け継がれる歴史は「伝統」という言葉がしっくり来る。御先祖様の作った素晴らしい文化を受け継いでいるのだから「恐れるものがあるだろうか」という励ましになる。
 「ひと時とて忘れやしない、帰るべきあなたのことを」とここで割りと唐突に「あなた」が登場するが、これは拉致被害者の帰りを待つ被害者家族の立場に成り代わって発せられた言葉ではないかと推測している。ただ、次の一行との整合性があまりないので、朝鮮半島統一のムードに乗って、無理矢理挿入された可能性はある。
 「守るべきものが、今はある」「沸(たぎ)る決意」は特に何を守るのか、何を決意しているのか、はっきりしない。これは皆がこの歌を口ずさむ時、それぞれの思いを重ね合わせられるように、あえて曖昧にしたのだと思う。人それぞれかなえたい夢や達成したい目標がある。それを特に何とも限定せずにそれぞれ皆が困難を乗り越えていけるようにと応援する。それでこそ応援歌だ。
 この歌は軍歌などではないし、もとより戦争や差別を煽るような表現はどこにもない。
 ヘイトスピーチというのは差別や排除や脅迫や侮蔑などの表現であって、この歌には何一つそのようなものはない。単なる応援歌だ。作品内容を強引に曲解した上で、ヘイトスピーチの定義まで拡大解釈して告発することを許したなら、それは当然ながら言論の自由に対する大きな脅威となる。それは絶対に認めるわけにはいかない。
 なおRADWIMPSにはもう一つ日本のことを歌った唄がある。『にっぽんぽん』という歌で、歌詞はhttp://j-lyric.net/artist/a04ac97/l02e9f4.htmlにある。自分の国の名を「にっぽんぽん」なんて茶化して歌うような人が、軍歌なんて作ると思うか、考えなくてもわかることだ。
 思うにタイトルを『TAEGUEKGI』に変え、「日出づる国」を「東方礼儀之国」に変えれば、韓国人が歌ってもいいのではないかと思う。

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