2018年6月10日日曜日

 今日は旧暦の四月二十七日。元禄三年の芭蕉は幻住庵に滞在し、元禄四年の芭蕉は落柿舎に滞在していた。
 今日は台風の影響で午前中から雨がぽつぽつと降ってきて、午後に本降りになった。眠かったので長い昼寝をした。

 『嵯峨日記』の四月二十一日のところに、「幻住庵記」の清書のことが書かれている。

 「廿一日 昨夜いねざりければ、心むつかしくて、空のけしきもきのふに似ズ、朝より打曇り、雨折々音信(おとづれ)れば、終日(ひねもす)ねぶり付たり。暮ニ及て去来京ニ帰る。今宵は人もなく、昼伏たれば、夜も寝られぬままに、幻住庵にて書捨たる反古(ほご)を尋出して清書。」

 前夜は去来が兄嫁から託された菓子・調菜を持ってきて、羽紅夫婦と飲み明かしたのだろう。明け方に羽紅夫婦は帰り、芭蕉と去来はそのまま一日うだうだと過ごしたようだ。雨の降る日は眠たいものだ。
 江戸時代になると今日のような甘いお菓子も作られるようになったが、ここでは本来の意味での木の実などではないかと思う。調菜も多分酒のおつまみになるような、野菜に簡単な調理をほどこしたものであろう。
 凡兆と羽紅は「羽紅夫婦」であり、今のような野沢夫婦という呼び方はなかった。凡兆の姓についてはウィキペディアには「姓は越野、または宮城、宮部とも」とあり、いずれも本来の意味での「姓」ではないし、武家のような正式な「苗字」でもなく、通名のようなものであろう。
 夕方に去来が帰り、夕方になったようやく起き上がると、今度は目が冴えてしまい、幻住庵で書き捨てた反古を取り出して清書したという。あれから一年経っている。
 幻住庵記の一番最初の元となった文章は、元禄三年四月十日付如行宛書簡で、その中に、

 「此度住る処は石山の後、長良山之前、国分山と言処、幻住庵と申破茅、あまりに静に風景面白候故、是にだまされ、卯月初入庵、暫残生を養候。比良・三上・湖上不残、勢田の橋めの下に見へて、田上山・笠とりに通ふ柴人、わが山の麓をつたひ、岩間道・牛の尾・長明が方丈の跡も程ちかく、愚老不才の身には驕過たる地にて御座候。されども雲霧山気病身にさはり、鼻ひるにかかりてゐ申候へば、秋末まではこたえかね可申候。身骨弱に而、つま木拾ひ清水汲事はいたみて口惜存候。」

とある。山々の列挙や笠とりの柴人など、既に「幻住庵記」の片鱗がある。
 その後、幻住庵滞在中に少しづつ書き進み、幻住庵を出たあと、「幻住庵ノ賦」が成立したのだろう。最後に庵を出るところが記されているから、その後だと思われる。
 これを順序を改め、幻住庵から出る場面をカットし、一日の記とした最終稿はこの頃に成立したのかもしれない。
 奥の細道の旅の終わりから庵を出るまでの時系列を追った紀行文的な体裁の「幻住庵ノ賦」から一日の出来事として切り取る日記的な体裁に改めたのは、『嵯峨日記』を構想した時に重なっていたのかもしれない。ただ、紀行文はこの次の年、江戸に帰ってから今の形に仕上がっている。草稿が書き溜められたのは幻住庵の頃だったのかもしれない。『笈の小文』の風雅論が生まれ、当初は「幻住庵記」に加えようとして、後にカットされたことから、平行して書かれていた可能性はある。

0 件のコメント:

コメントを投稿