「ゑびす講」の巻、昨日の続き。
「振売の」の句は倒置になっているので、それを元に戻すと「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也」となる。恵比寿講から「あはれ」を言い興す。
連句の場合、去り嫌いなどの式目上のルールがあるため、分類される句材がある。「振売の」の句の季題は「恵比寿講」で冬。冬は一句から三句まで続けることができる。
「振売」は「振売をする人」という意味では人倫になるが、ここでは「振売」という行為によって売られている雁なので、人倫にはならないと思われる。この辺は杓子定規に、ある言葉が使われていれば自動的に振り分けられるのではなく、実質的な意味で判断した方がいい。談林の頃は季題も句材も形式的扱われていたこともあったが、連歌や蕉門の俳諧では実質的に判断した方がいい。
「雁」も同様、ここでは肉であって生きてないので生類にはならない。故に「鳥類」ではない。
さて、それでは次の句、「脇」を見てみよう。
振売の雁あはれ也ゑびす講
降てハやすミ時雨する軒 野坡
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「佇ミ居たる風情ならん。句作に哀調を和せりといふべし。」とある。
「降りては休み」というのは時雨が降ったので雨宿りして休むという意味。時雨が降ったり止んだりというのではない。当時の語感では雨が休むという擬人的な言い回しはほとんどなく、「休む」と言ったらその主語は人だと読んだ方がいい。
発句が「恵比寿講」から「あはれ」の情を言い興しているので、脇はその情に逆らわず、和すように作る。雁の哀れに時雨の哀れを添える。時雨の雨宿りといえば、
世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇
の句が思い浮かぶ。
倒置を元に戻すと、「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也、時雨する軒で降てはやすみ」となる。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、今だったらコピペのように同一の文章。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ説で宗祇の句についても触れている。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「時雨の折々降休みては又降」と時雨が休むとしている。
他は発句の解釈が異なるため省略する。
句材の方は、まず「時雨」が冬の季題で降物(ふりもの)。「軒」は居所になる。俳諧は連歌の式目に準じるとはいえ、かなり簡略化され、特に歌仙などの短い形式で行われることが多いため、連歌では五句去りになるものも三句去りくらいにとどめている場合が多い。降物、居所なども俳諧ではおおむね三句去り。
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