2016年11月10日木曜日

 昨日は木枯らしが吹き、今日はさらに冷えまさる日だった。それでは、初しぐれの句の続き。

 日本の文化の大きな特徴として考えられるのは、職人文化だということだ。
 今日でも「ものづくり」がしきりに叫ばれ、技術はあってもビジネスモデルがないだとか言われるし、長時間労働体質も職人文化の、一つの技能に生涯命を賭けるべしという古くからのモラルが関係していると思われる。
 それはおそらく日本の国の成り立ちが大陸から渡ってきた職能集団によるもので、職能集団が土着の狩猟民族や農耕民族を統治する所に最初の朝廷が立てられたことに由来するものであろう。
 そのため、職人芸能の人たちは直接天皇に結び付けられ、皇族を祖先とする神話を持ち、天皇の供御人とされてきた。彼らは租税の免除と諸国往来の自由を認められていた。
 中世にあっては彼らは寺社勢力と結びつき、公界を中心とした文化を生み出していった。連歌もその一つであり、能や茶道もこうした場から生まれた。
 芭蕉の『笈の小文』の冒頭の、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という言葉も、自らをこうした中世の公界の文化の継承者に位置づけるものと見ていい。
 しかし、江戸時代になると、こうした公界を自由に往来していた職人芸能の人たちに定住を命じ、その中の一部は非人弾左衛門(だんざえもん)の支配下に置かれ、士農工商の身分のさらに下に置かれるようになった。そこには歌舞伎役者も含まれていた。
 芭蕉は、

  節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉  芭蕉
  節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉    同
  から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内   同
  納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)  同
  年々(としどし)や猿に着せたる猿の面   同

といった句を詠んでいるように、節季候(せきぞろ)、鉢叩(はちたた)き、空也念仏(くうやねんぶつ)、猿引(さるひ)きなど、卑賤視された人々に常に目を向けていた。
 芭蕉が一所不住を誓い旅に出るようになったのも、かつての中世の公界の精神に自らを同化させようとしてたからではないかと思われる。
 江戸幕府の政策の中で抑圧されてゆくかつての公界の精神を、芭蕉は蓑笠を失い雨に打たれるがままになったサルの姿に託したのではなかったか。
 芭蕉は延宝八年(一六八〇)に深川に隠棲し、天和二年(一六八二)の春には談林俳諧のリーダーだった西山宗因が死去している。宗因もまた旅に生涯を送る最後の連歌師の一人とも言える人物だった。芭蕉はそんな中で旅への思いを募らせてゆく。
 その天和二年の冬の句、

   手づから雨のわび笠をはりて
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな    芭蕉

は、中世連歌の大成者宗祇法師の発句、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな    宗祇

のオマージュだった。
 「ふる」は時雨の「降る」と、歳を取っていくという意味の「世に経る」との掛詞になっている。年老いてゆく苦しみは冷たい時雨の雨に打たれる苦しみと二重写しになり、そんな中で雨宿りにほっと一息つく、人生は苦しくもあればこうした幸せな瞬間もある、そんな句だ。
 『去来抄』には芭蕉の言葉として、「上に宗因なくば、未だに貞門のよだれをぬぐうべし」と記されている。芭蕉は宗因を尊敬してたし、宗因との出会いがなければ蕉門の俳諧も生まれなかったであろう。その宗因の本職は連歌師であり、旅に生きたその姿はいにしえの宗祇法師にも重なるものがあったのではないかと思う。
 天和二年は芭蕉にとっての大きな転機となった年で、各務支考が後に記す所によれば、この年の春に「古池の句」の着想を得ているし、暮れには八百屋お七の大火で芭蕉庵は炎上し、芭蕉自身も隅田川に飛び込んで難を逃れている。
 このあと芭蕉庵再建までの間甲斐で過ごしたのが、最初の旅とも言える。
 そして二年後の貞享元年(一六八四)の秋、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。
 このたびの途中で、先の「笠もなき」の句のほかに、

 この海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ 芭蕉
 草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ  芭蕉

の句も詠んでいる。この年は生類哀れみの令の始まった年でもあり、野犬がやがて大きな問題になっていく頃でもあった。
 そして元禄二年の『奥の細道』の旅の途中では、

    洞(ほら)の地蔵にこもる有明
  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

の句を詠んでいる。古来楓や蔦の葉を赤く染めてゆくのは時雨で、

 小倉山秋の梢の初しぐれ
   今いくかありて色に出でなむ
               藤原為相
 初しぐれ降るほどもなくしもとゆふ
   葛城山は色づきにけり
          仁和寺後入道法親王覚性

などの古歌もある。それをサルの涙が染めるとした所に、この年の冬に詠む「猿も小蓑を」の句の原型ともいえるモチーフを感じさせる。
 芭蕉は中世の公界の文化に憧れ、自らも中世連歌師のように旅をしようと試み、古人の魂に同化しようとした時、そこにあったのは、江戸時代の身分制度の下での蓑笠を失い時雨に打たれるがままの自分の姿だった。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 猿が叫んだのはあの頃の公界の文化を、公界の自由と人としての権利を返してくれ、ということではなかったか。
 猿は江戸時代の儒家神道では猿田彦大神として最高神として祀られている。猿田彦大神は道祖神や青面金剛とも習合し、庚申待ちは江戸時代の庶民に広がり、今日でも至る所に庚申塔を見ることができる。
 初しぐれに叫んだサルは蓑笠を着た聖なる猿の幻想を生み、その姿は芭蕉の終生崇拝していた道祖神の姿でもあり、江戸幕府の精神的支柱でもある儒家神道の猿田彦大神の姿にも重なる。まさにそれが「俳諧の神」だったのではないか。

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