今日は千葉市美術館で「浦上玉堂父子」展を見た。そちらの話題はmixiの方で。
時雨は冬の季題だが、紅葉を染める時雨は秋のものだった。
龍田河紅葉はながる神なびの
みむろの山に時雨ふるらし
文武天皇
しら露も時雨もいたくもる山は
下葉のこらずいろづきにけり
紀貫之
といった歌が『古今集』に見られる。初時雨も前回書いたように、秋に詠まれている。
連歌の発句でも、秋の季題と重ねて秋の句として詠まれることもあった。
長月や山どりのおのはつ時雨 智蘊
露にみよ青葉の山ぞ初しぐれ 宗祇
冬の時雨も『古今集』では詠まれている。
貞観の御時、
万葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければ、
よみてたてまつりける
神な月時雨ふりおけるならの葉の
名におふ宮のふるごとぞこれ
文屋有季
はゝがおもひにてよめる
神な月しぐれにぬるゝもみぢばは
ただわび人のたもとなりけり
凡河内躬恒
さらに『後撰集』では、
神無月ふりみふらずみさだめなき
時雨ぞ冬のはじめなりける
よみ人知らず
山に入とてよめる
神無月時雨ばかりを身にそへて
しらぬ山路に入ぞかなしき
増基法師
時雨の定めなさ、そして旅の僧に冷たく苦しく降りつける時雨の趣向は、『新古今集』の、
世にふるは苦しきものを槇の屋に
安くもすぐる初時雨かな
二条院讃岐
冬を浅みまだき時雨と思ひしを
堪へざりけりな老いの涙も
清原元輔
といった歌に受け継がれてゆく。
さらに、時雨の晴れ間の月を見出すことによって、より冷えさびた趣向へと高められてゆく。
月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
心あるべき初時雨かな
西行法師
たえだえに里わく月の光かな
時雨を送る夜半のむら雲
寂蓮法師
連歌発句の、
月は山風ぞしくれににほの海 二条良基
もこの系列にある。
老いた旅の僧に定めなき時雨の苦しさは、「降る」「経る」「古る」の縁を見出すことで、
世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇
の句に凝縮されてゆくことになる。
芭蕉にも、「猿に小蓑」の句のほかに、『笈の小文』の旅立ちの句、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
の句や、元禄四年の、
宿借りて名を名乗らする時雨かな 芭蕉
元禄五年の、
けふばかり人も年よれ初しぐれ 芭蕉
の句がある。いずれも宗祇の時雨を引き継いでいる。
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