2016年11月19日土曜日

 さて、それでは「ゑびす講」の巻の第三を見てみよう。

   降てハやすミ時雨する軒
 番匠が樫の小節を引かねて    孤屋

 「番匠(ばんじょう)」は建築現場で大工の下働きをする人。樫の木を鋸で引いていると、小さな節があって堅くて切れないで困っているという情景だろう。うまく切れなくて四苦八苦しているうちに時雨になって、仕事の手を休める。「軒」はここでは今建てている建築物の軒ということになる。
 前句の「やすミ」を雨宿りのことではなく、仕事の手を休めることに取り成して付けている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「やすむの語に出て体用の変あり。」というのはそのことを言うのであろう。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は同一の文章でコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「休ムト言語ヨリ体用ヲワカテリ。」とある。
 軒での「休み」は雨宿りの「休み」なので名詞であって体言、引きかねて「休み」は休むという動詞の活用形なので用言となる。なるほと、古人は文法的な違いをよく観察している。
 これに対して、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は前句の「やすミ」を雨宿りではなく時雨が降っては休むとし、時雨で湿った木を番匠が引きかねてと解する。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「時雨ノ雨ヲイトヒテ、ハヤクシマハントスルニ、樫ノ節引割カネテ。」とする。
 この二つの解釈は一応理由がある。
 連歌も俳諧も第三は「て」で留めることが多い。これは「て」が原因にも結果にも使える便利な言葉だからだ。
 たとえば、

 急に雨降り俺はびしょ濡れ

という句にその原因を「て留め」で付ける。

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 油断して傘を持たずに家を出て

 これだと、

 油断して傘を持たずに家を出て急に雨降り俺はびしょ濡れ

とスムーズにつながる。
 結果を「て留め」で付けると、

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 脱いだ服ストーブの上で乾かして

となる。これだと、

 脱いだ服ストーブの上で乾かして急に雨降り俺はびしょ濡れ

となる。やや違和感はあるものの、上句の「て」で一度間を置き、一首全体が上句と下句で倒置になっていると思えば意味は通る。
 連歌俳諧ではこうした「て留め」で結果を付けることが多い。それは次の句を付ける人が結果を原因としてさくっと次に展開できるからだ。たとえば、

   脱いだ服ストーブの上で乾かして
 布団の上で猫もくつろぐ

のように。
 「番匠が」の句を脇句の原因ではなく結果だと解釈すれば、時雨が降ったので鋸を引きかねたというふうにも読めてしまう。ただ、節で引きかねているのに更に時雨で引きかねているとするのは屋上屋を重ねるようでくどい。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は前句の時雨の降りては休みを鋸の屑のはらはらと落ちては節に引っかかって休みという比喩としている。これを「響き付け」としているが、明治三十年ともなれば蕉門の響き付けが正しく認識されていたかどうかは怪しい。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「時雨する櫨に番匠の鋸挽、樅の小節の厭はしきに渋り働きするさま、ただ是市井の有るところの情景なり。」と単に前句の景色から連想される景色を付けたとする。現代連句の付け方は大体こんなもの。俳諧に非ず。
 冬は三句まで続けることができるが、三句まで続けることは稀で、たいていは一句か二句で終わる。ここでも発句脇と二句で終わり、第三は無季になる。月の定座があるので秋に転じやすくしている。
 「番匠」は人倫。人倫と人倫は打越を嫌うが、発句の「振売」は行為を表すもので人倫ではないのでセーフ。「樫」はこの場合材木なので植物ではない。

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