2022年3月21日月曜日

 思うに、声そのものは大した力はない。大勢の人が声を上げた所で、それはただ音響的にうるさいというだけにすぎない。
 ただそれが憎悪の声となり、今にも物理的に、つまり暴力を以てして自分に掛かって来るのではないかという恐怖を与えた時、初めて力を持つ。
 デモ隊がいても、いくら数が多くても、おとなしく平和的にデモをしている限り、それが実際に何の圧力になるのか。こいつらがひょっとしたらみんな武器を持って反乱を起こすかもしれないとなった時、民衆の声というのは大きな意味を持つ。
 平和的なデモをやっている時に、一部が暴徒化するのを批判する人もいるが、暴徒化するくらいでないと、少なくとも警察や軍隊などの暴力装置に守られた人に恐怖を与えることはできない。
 暴徒化すれば、当然暴力によって鎮圧され、逮捕され、処刑される。その覚悟なしに力を持つというのは、結局無理なのではないか。
 江戸時代の百姓一揆も、首謀者は処刑された。ただ、その処刑と引き換えに要求が認められることも多かったという。百姓一揆というのも一つの取引だった。何の代償も払わずに要求を通すなんてことはできなかった。それはいつの世も同じなのかもしれない。
 自分を安全な場所に置いての抗議行動には元々大した力はない。だからといって大衆の支持のない暴力行為(テロ活動)は、権力の圧倒的な力の前に無駄死にに終わる。大衆も当然テロと戦う国家権力を支持する。だが、大衆が味方してくれるような暴力なら、勝ち取るものもある。
 今の人が長い平和の中でボケて忘れてしまったことではないかと思う。民衆運動が本当に力を持つというのは、いつでも暴力に変換できる時だけだったんだと思う。
 まあ、十五パーセントの人たちが蜂起したところで、返り討ちに合うだけだからやめた方が良い。残りの八十五パーセントが支持する国家権力に捻り潰されるだけだ。八十五パーセントの側の暴力なら国家を動かせるはずだが、今の時代はこの力を平和主義の名のもとに封じられていると言っていいのではないかと思う。香港もミャンマーも。そして、ロシアも中国も。
 ロシアの民衆も一度はレーニン像を引きずり降ろしている。でも今のロシア人はプーチンを引きずり下ろすことはできなかった。その平和主義の幻想に守られていたプーチンが、自らそれを壊した。さあ、これから世界はどうなるのか。

 それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。

 三裏、六十五句目。

   行き過ぎかねついもが住かた
 草むすぶ枕の月を又やみん     宗祇

 妹のもとに帰りたい気もあるが、旅の虫がまたうずく。「草枕」を分解して「草むすぶ枕」とする。
 六十六句目。

   草むすぶ枕の月を又やみん
 やどれば萩もねたる秋の野     宗伊

 草を枕の文字通りの野宿をすれば、萩も添い寝する。萩は枝が枝垂れることから「臥す」ものとされている。
 六十七句目。

   やどれば萩もねたる秋の野
 露かかる山本がしは散りやらで   宗祇

 柏の露は「濡(ぬ)る、寝(ぬ)る」に縁がある。

 朝柏ぬるや川辺のしののめの
     思ひて寝れば夢に見えつつ
               よみ人しらず(新勅撰集)
 嵐吹く原の外山の朝柏
     ぬるや時雨の色にいでつつ
               西園寺実氏(道助法親王家五十首)

などの歌にも詠まれている。
 秋の野の野宿は柏の露にも寝(ぬ)れば、萩の露にも濡れる。
 六十八句目。

   露かかる山本がしは散りやらで
 ふりそふ霰音くだくなり      宗伊

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、

 閨の上に片枝さしおほひ外面なる
     葉廣柏に霰降るなり
               能因法師(新古今集)

の歌を引いている。
 「音くだく」という言葉は日文研の和歌検索だと二例ヒットする。

 霰降る谷の小川に風さえて
     とけぬ氷の音くだくなり
               未入力(建仁元年十首和歌)
 雲寒き嵐の空に玉散りて
     降るや霰の音くだくなり
               未入力(延文百首)

 六十九句目。

   ふりそふ霰音くだくなり
 寄る浪もさぞなかしまが磯がくれ  宗祇

 「さぞなかしま」は「さぞな鹿島」。

 浦人も夜や寒からし霰降る
     鹿島の崎の沖つしほかぜ
               二条為氏(新後撰集)

の歌があるように鹿島に霰は縁がある。鹿島神宮は海からやや離れていて、位置の鳥居は霞ケ浦の北浦にある。鹿島の崎はここではなく、銚子から見た利根川の対岸にある浜崎のことだという。
 七十句目。

   寄る浪もさぞなかしまが磯がくれ
 さほぢをゆけば川風ぞ吹く     宗伊

 佐保路は奈良の東大寺から西大寺を結ぶ一条大路の辺りで、コトバンクの「世界大百科事典内の佐保路門の言及」には、

 「…また,奈良市街北方の丘陵地を佐保山というが,元正・聖武天皇,光明皇后や藤原不比等・武智麻呂,大伴氏一族などが葬られており,奈良時代の葬地としては一等地であったらしい。なお,平城京一条大路は佐保大路とも呼ばれ,その東端に当たる東大寺転害(てがい)門は佐保路門と呼ばれていた。中世には,条里の里名に佐保里がみえ,これは現在の多門町付近に相当する。…」

とある。川風は佐保川の風か。
 東大寺には春日大社が隣接していて、鹿島大社と同じ武甕槌命が祀られていて、武甕槌命が鹿島から奈良に来る時に、白鹿に乗ってきたと言われている。そのため春日大社の鹿は神使として保護されている。
 佐保川の川の流れに遠い鹿島の磯を偲ぶ。
 七十一句目。

   さほぢをゆけば川風ぞ吹く
 ときあらふ衣やほすもしほるらん  宗祇

 衣を干すというと、

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
     衣干すてふ天の香具山
               持統天皇(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られている。天の香具山は飛鳥京の方で平城京の奈良からは遠いが、和歌の世界では一緒に扱われがちだった。

 佐保姫の名に負ふ山も春来れば
     かけて霞の衣干すらし
               藤原為家(続拾遺集)
 佐保姫の衣干すらし春の日の
     光に霞む天の香具山
               宗尊親王(続後拾遺集)

の歌のように、春日の佐保路で佐保姫の衣を干すという連想は別に変ではない。
 佐保姫の衣を干すが、湿った川風に却って湿ってしまったか、とする。
 七十二句目。

   ときあらふ衣やほすもしほるらん
 涙の袖をぬぎもかへばや      宗伊

 干してもすぐに濡れる衣を悲しみの涙の衣とし、そろそろ脱ぎ変えなければいけないと、思いを断ち切ろうとする。失恋の涙としてもいいのだが、恋の意図は明確ではない。
 七十三句目。

   涙の袖をぬぎもかへばや
 をしまじよ物おもふ身の春の暮   宗祇

 「をしまじよ」の上五は、

 をしまじよさくら許の花もなし
     ちるべきためのいろにもあるらん
               藤原定家(拾遺愚草)
 をしまじよくもゐの花になれもせず
     けふぬぎかふる春のころもて
               藤原家隆(壬二集)

など、和歌にも用いられる。花が散り春が行くのは本来惜しむべきものだが、それを惜しまないということろに、春らしい春の来なかった嘆きが表現される。
 憂鬱で悲しい春だったなら、春が行くのも惜しまない。早く夏の衣に着替えて、気分も一新したい。
 七十四句目。

   をしまじよ物おもふ身の春の暮
 よはひかたぶき月ぞかすめる    宗伊

 春が惜しまねばならないほど良いものでなかったのを、老化のせいとする。春の月は霞がかかって朧になるものだが、目が悪くなったこととも掛ける。
 七十五句目。

   よはひかたぶき月ぞかすめる
 おどろけば花さへ夢のみじか夜に  宗祇

 「おどろく」と「夢」はしばしば対になって用いられる。

 窓近きいささむら竹風吹けば
     秋におどろく夏の夜の夢
               徳大寺公継(新古今集)

 夢から覚めたようなはっとする感じを「おどろく」と表現するのは、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
               藤原敏行(古今集)

の発展させた用法なのだろう。秋風に驚くのは、夏の夢が覚めたからだとし、この用法は和歌の世界では定着してゆく。
 宗祇の句も春の花も短い夜の夢として、はっと夢から覚めておどろけば、いつの間にか年老いていた、となる。
 七十六句目。

   おどろけば花さへ夢のみじか夜に
 鳴きて過ぐなり山ほととぎす    宗伊

 春の花は夢と過ぎ去り、夏の短い夜ともなればホトトギスが鳴く。
 七十七句目。

   鳴きて過ぐなり山ほととぎす
 恋ひわぶる故郷人は音もせで    宗祇

 ホトトギスはウィキペディアに、

 「後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

とある。
 ついに長年の念願かなって故郷に戻ることができたが、そこは荒れ果てていて住む人もなく、ホトトギスだけが「不如帰去」と鳴いている。
 七十八句目。

   恋ひわぶる故郷人は音もせで
 かへるやいづこすまの浦浪     宗伊

 『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は、『源氏物語』須磨巻の、

 「煙のいとちかくときどき立ちくるを、これやあまのしほやくくならんとおぼしわたるは、おはしますうしろの山に、柴といふものふすぶるなりけり。
 めづらかにて、

 山がつのいほりにたけるしばしばも
     こととひこなんこふる里人」

 (時々煙がすぐそばまで漂ってくるのを、これが海人の塩焼く煙なのかと思ってましたが、住んでいる所の後の山で柴を焼いている煙でした。
 ついつい見入ってしまい、

 山がつの庵で焼いてる芝しばも
     尋ねてきてよ都の人)

の歌を引いている。芝を焼くから「しばしばことこひこなん」を導き出す。
 宗伊の句の方は、前句を都の人がなかなか訪ねて来ないという意味にして、須磨での源氏の境遇を思い描いて、「かへるやいづこ」とする。

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