2022年3月30日水曜日

 染井吉野はまだまだ満開だが、今年は新月と重なっている。去年の今頃は満月だったが。
 久しぶりのオミ株の話題で、東京が四日連続先週比で感染者数が増えている。東京だけの特殊な状況によるものなのか、全国に波及するのか、今のところは何とも言えない。
 死者は去年の十月十四日に一万八千人を越えて、もうそろそろ二万八千人に届くかな。この冬ちょうど一万人という所で、大体例年のインフルエンザの死者数と変わらないレベルに収まった。インフルエンザの流行は今年もなかった。

 さて、春の連歌をもう一巻、『新潮日本古典集成33 連歌集』(島津忠夫校注、一九七九、新潮社)から、読んでみようと思う。今度は少し時代が遡って、宗砌の時代の連歌「賦何路連歌」、享徳二年(一四五三年)三月十五日の興行になる。
 時代的には享徳の乱の前年で、世の中は戦国時代に入りつつあった。享徳の乱がおきると、関東に古河公方が誕生し、関東が東西に分断されることになった。
 まだ平和で主要な連歌師がまだ都にいた頃だったからか、宗砌にもとに忍誓、行助、専順、心恵(心敬)など、そうそうたるメンバーが揃っている。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』(一九七九、新潮社)の島津注には、

 「野坂本、京大本には本歌連歌として、各句に本歌をあげるが、出典未詳のものが多く、この百韻の成立とのかかわりについては不審も多いが、一概に後人の偽作として退けられないので、頭注の末尾に本歌として掲げた。」

とある。
 基本的に連歌で本歌を取る時は、八代集の時代までの有名な歌を取るもので、雅語の正しい用例の典拠となる證歌を取る場合でも、八代集までの作者の歌が求められる。
 ところが、ニ十句目の「本歌」が『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、

 「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」

とあるところからすると、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌としたと思われる。
 この本歌連歌の本歌として掲げられている歌の多くは、日文研の和歌検索データベースでヒットしない歌ばかりなのも、勅撰集はもとより、通常の私歌集や歌合せや百首歌千首歌などの類にはない俗歌だとすれば納得できる。
 本来雅語ではない言葉を、俗歌を本歌に用いるというのが、「本歌連歌」の趣旨だったのなら、むしろ雅語の限界を越える意味で俗語を取り入れた、一種の俳諧だった可能性がある。
 とにかくこれは通常の連歌とはかなり異なるもので、正直言って厄介なものを引いてしまったなという感じがする。
 
 発句は、

 咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉    宗砌

 藤はその薄紫の花の咲きっぷりが波のようだということで、藤波と呼ばれ、波に喩えられていて、

   家に藤の花の咲けりけるを、
   人のたちとまりて見けるをよめる
 わが宿にさける藤波立ちかへり
     すぎかてにのみ人の見るらむ
              凡河内躬恒(古今集)
 わがやどの池の藤波さきにけり
     山郭公いつか来鳴かむ
              よみ人しらず
 この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)

など、古くから歌に詠まれている。
 ここではその藤の裏葉が、さながら藤波の玉藻のようだ、とする。
 この発想はオリジナルではなく、日文研の和歌検索では「浪の玉藻」の使用例が、

 磯のうら浪の玉藻のなのりそを
     おのがねに刈るほととぎすかな
              番号外作者(夫木抄)
と、もう一首肖柏の歌があるが、肖柏はこの時代より後になる。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 行く春のかたみに咲ける藤の花
     うら葉の色は浪の玉藻か

の歌を挙げているが、野坂本、京大本の「本歌連歌」として記されている歌であろう。出典はわからない。「浪の玉藻」が八代集の雅語ではないため、この言葉の典拠として、当時流布していた俗歌を用いた可能性はある。
 先に述べたように、従来の雅語の限界を越えるための、一つの実験だったとするなら、一種の俳諧と言えよう。
 脇。

   咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉
 春に色かる松の一しほ      忍誓

 松に藤は付け合いで、

 みなぞこの色さへ深き松がえに
     ちとせをかねてさける藤波
              よみ人しらず(後撰集)
 住吉の岸のふぢなみわがやどの
     松のこずゑに色はまさらし
              平兼盛(後撰集)

など、古くから和歌に詠まれている。お目出度い賀歌の体といえよう。
 「松の一しほ」は『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」で、

 ときはなる松の緑も春くれば
     いまひとしほの色まさりけり
              源宗干(古今集)

の歌が引かれているように、元から常緑の松も、春が来れば、なおひとしお緑になる、という意味で、

 それながら春はくもゐに高砂の
     かすみのうへの松のひとしほ
              藤原定家(新後拾遺集)

などの歌にも受け継がれているが、通常は正月の松のひとしほをよむものだが、句の方はそれを藤波の玉藻に松も「ひとしほ」とする。
 第三。

   春に色かる松の一しほ
 嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて  行助

 峰の雪が雨に融けて春が来ると、「松の紅葉」とも呼ばれる雪で白くなった峰の松も緑になる。
 松の紅葉は後になるが「新撰菟玖波祈念百韻」の九十二句目に、

   露分くる秋は末野の草の原
 雪に見よとぞ松は紅葉ぬ     友興

の句があり、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 雪ふりて年の暮れぬる時にこそ
     つひにもみぢぬ松も見えけれ
              よみ人しらず(古今集)

を本歌とする、としている。
 常緑の松は紅葉することはないが、雪で白くなればそれが松の紅葉だ、という意味。この白い雪が解ければ、松は緑の姿を取り戻す。今まで白かっただけに、ひとしお緑に見える。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 松たてる嶺の白雪消え初めて
     のどけき春に色やかるらん

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「消え初めて」の語は、

 この頃は富士の白雪消えそめて
     ひとりや月の嶺にすむらむ
              藤原良経(秋篠月清集)

の歌にも見られるが、用例はきわめて少ない。そのため俗歌を典拠にあまり使われなかった言葉を使ったのであろう。
 四句目。

   嶺の雪今朝ふる雨に消え初めて
 霞にうすく残る月影       専順

 雪の消えた嶺には霞にうすくなった月が残っている。明け方の空とする。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 静かなる有明の月の春の夜は
     霞にこめて影ぞ残れる

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 この歌の場合は単語ではなく「霞に影が残る」という言い回しを、八代集の雅語以外を典拠に取り込む意図があったのだろう。
 五句目。

   霞にうすく残る月影
 鶯もまだぬる野べの旅枕     心恵

 心恵は心敬と同じ。
 明け方に残る月を見るのを、旅立ちの刻とする。鶯もまだ寝ているか、その声もない。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 春にきて幾夜も過ぎぬ朝戸出に
     鶯きぬる窓の村竹

だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 似た歌には、

 鶯のよとこのたけのあさとでに
     いつしかいそぐおのが初声
              定為(嘉元百首)
 人はこぬみ山の里のあさとでに
     かたらひそむる鶯のこゑ
              宗良親王(宗良親王千首)

がある。この場合も単語ではなく、朝の旅立ちの鶯の典拠としての本歌だったのだろう。
 六句目。

   鶯もまだぬる野べの旅枕
 誰か家路も見えぬ明闇      宗砌

 「明闇」は「あけぐれ」。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「夜明け前のまだうす暗い時分。未明。
  出典枕草子 雪のいと高うはあらで
  「あけぐれのほどに帰るとて」
  [訳] 夜明け前のまだうす暗い時分に帰ると言って。」

とある。
 朝早い旅立ちはまだ明闇の頃で、誰の家へ行く道も見えない。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 おもひでの日影のかすむ春なれば
     家ぢの見えず成けり

で文字の欠落があるのか。日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
 明闇(あけぐれ)は古い時代の用例も多く、雅語で間違いない。「家路も見えぬ」は日文研の和歌データベースでは『後鳥羽院御集』に一例、「家路の見えず」はゼロで、この言い回しが雅語ではなかったのであろう。
 七句目。

   誰か家路も見えぬ明闇
 真葛原帰る秋もやたどるらん   忍誓

 前句の家路が見えないのをあけぐれだけでなく、葛に覆われた原っぱだからだとする。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 うつろはでしばし篠田の森を見よ
     かへりもぞする葛のうら風
              赤染衛門(新古今集)

で、八代集の歌なので本歌とするには問題はない。
 葛葉の秋風に裏返るを古来和歌に詠んできたので、「葛」に「かへる」は縁語になる。
 葛の葉の「帰る」と「裏返る」の掛詞の典拠として、この歌を用いたのであろう。
 近世の、

 葛の葉のおもて見せけり今朝の霜 芭蕉

の句は、普通は裏を見せる葛がしおらしく面を見せているという意味で、背いてた嵐雪が芭蕉の元に戻ってきた時のしおらしい様子を詠んだ句だった。
 八句目。

   真葛原帰る秋もやたどるらん
 古枝の小萩なほ匂ふ比      行助

 真葛原をたどる頃は小萩の古枝も匂う。
 『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、

 秋絶えぬいかなる色と吹く風の
     やがてうつろふ本あらの萩

で、

 秋たけぬいかなる色と吹く風に
     やがてうつろふ本あらの萩
              藤原定家(拾遺愚草)

の歌のことであろう。「秋たけぬ」は「秋闌ぬ」で秋も真っ盛りという意味。今日でも「宴たけなわ」という言い回しに名残をとどめている。
 「本あらの萩」は多数の用例があり雅語と見ていい。この場合は「萩のうつろふ」を「小萩なほ匂ふ」の典拠としたと見た方が良いのだろう。
 八代集の時代の作者なので、本歌とするには問題なさそうだが、有名な歌ではないから、ということか。

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