これは昨日の写真。
それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。
初裏、九句目。
やどりや出づる人さわぐなり
ふす鳥をかり声ちかき山のかげ 宗祇
ここで宗祇が二句続けて上句下句を交代する。
ふす鳥はうつ伏している鳥で、足を畳んで休んでいる鳥もこう表現するのであろう。前句の宿を出た人たちは狩りのために外に出て行った。
騒ぐと逃げちゃいそうだけ、鷹狩の場合は逃げようとして飛び立ったところを鷹に襲わせる。犬を使って飛び立たせる。
十句目。
ふす鳥をかり声ちかき山のかげ
わけくる雪ぞ跡をあらはす 宗伊
狩りというと雪で、
罪の報いもさもあらばあれ
月残る狩り場の雪の朝ぼらけ 救済
の句は当時はよく知られていたのだろう。
冬の雪を踏む分けて行く旅をしていると、辺りから狩りの声が聞こえてくる。
十一句目。
わけくる雪ぞ跡をあらはす
くろかみの中半うつろふ年々に 宗祇
前句の雪を白髪の比喩とする。
黒髪も歳とともに白髪混じりになり、頭髪をかき分けると白髪があらわになる。
十二句目。
くろかみの中半うつろふ年々に
恋しさまさるたらちねのかげ 宗伊
白髪の増えた母(たらちね)が、余計に恋しくなる。
十三句目。
恋しさまさるたらちねのかげ
身のいかにならむもしらず世に住みて 宗祇
前句の母は既に亡くなり、思い出の中でますます恋しくなる、とする。
そして我もまた年老いて後世のことが気にはなるものの、出家することもなく、未だに俗世にしがみついている。述懐の見本のような句だ。
十四句目。
身のいかにならむもしらず世に住みて
とすれば涙袖にかかれる 宗伊
「とすれば」という言葉は、
袖の上にとすれはかかる涙かな
あないひしらす秋の夕暮れ
宗尊親王(続古今集)
など和歌に用例がある。
前句を、この先どうなるかわからないこの世間で、として、ふいに涙が溢れて来る、とする。述懐とも恋ともつかない曖昧な句で、やや展開にあぐねた遣り句気味の句になっている。
十五句目。
とすれば涙袖にかかれる
たのめただ待たぬもつらき夜半の空 宗祇
ここは恋に転じるしかないだろう。男の通って来るのを待つ夜も辛いが、待たなくてもよくなって、つまり完全に切れてしまうと、それもまた辛い。
十六句目。
たのめただ待たぬもつらき夜半の空
おきゐる戸ぐちあけやしなまし 宗伊
憎しみ合って別れた後、あの男が未練たらたらで、ストーカーみたいにまた訪ねて来ないかと思うと、それも辛い。
十七句目。
おきゐる戸ぐちあけやしなまし
月みればいづくともなき鐘なりて 宗祇
前句を自分の意志で戸を開けよう、と取り成し、月を見ているうちの夜が明けて戸を開ける、とする。
十八句目。
月みればいづくともなき鐘なりて
秋のとまりにおくる舟人 宗伊
明け方ということで秋の港に船で旅立つ人を見送る。
「舟人」は、
誰としも知らぬ別れのかなしきは
松浦の沖を出づる舟人
藤原隆信(新古今集)
のように、離別の歌に用いられる。松浦は中国へ渡る舟の出る所だった。
十九句目。
秋のとまりにおくる舟人
行く雁の旅の誰をか友ならむ 宗祇
舟に乗って遠ざかる旅人を雁の渡りに喩えて、雁が列を組んで飛ぶように誰か友がいればいいのだが、とする。
ニ十句目。
行く雁の旅の誰をか友ならむ
ひとりのみねをこゆる夕暮 宗伊
一人で峰を越える旅人の、友のないことの嘆きとする。
二十一句目。
ひとりのみねをこゆる夕暮
古寺は花のかげだにかすかにて 宗祇
一人峰を越える旅人を出家して寺に入る者とする。峰を越えると目指す古寺とそれを囲む桜が幽かに見えて来る。
二十二句目。
古寺は花のかげだにかすかにて
春のはつせは奥もしられず 宗伊
前句の古寺を長谷寺とする。名所の花とする。
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