2022年3月12日土曜日

 山内図書館の前の河津桜は満開だった。
 昨日のニュースじゃキエフまで十五キロまで迫ったと言ってて、今日のニュースではニ十キロまで迫ったと言っている。東京で言うと、日光や日立の辺りに国境があって、そこから来た軍隊が浦和と流山で止まっているというところかな。これだと宇都宮の辺りにチェルノブイリがあることになる。

 それでは「いざ折て」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   垢離かく水の影をにごすな
 うごきなき岩井に立る売僧坊   在色

 売僧(まいす)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「売僧」の解説」に、

 「〘名〙 (「まい」は「売」の慣用音、「す」は「僧」の唐宋音)
  ① 仏語。禅宗で、僧形で物品の販売などをした堕落僧。転じて、一般に僧としてあるまじき行為をする僧。不徳・俗悪学僧。また、僧侶をののしってもいう。売僧坊主。まいすぼん。
  ※壒嚢鈔(1445‐46)二「あきないするをば売僧(マイス)と云」
  ② 転じて、人をだましたり、うそをついたりする者。また、人をののしってもいう。売僧坊主。まいすぼん。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ いつわり。うそ。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Maisuuo(マイスヲ) ユウ」

とある。①の最後にもあるが、「売僧坊」には「まいすぼん」とルビがある。
 岩井の前に立って動かないというのは、もしかして立小便?
 五十二句目。

   うごきなき岩井に立る売僧坊
 無辺なりけり山のむら雲     松意

 無辺(むへん)は無量無辺で果てしないこと。売僧坊はただ雲を見てただけだった。疑って悪かった。
 五十三句目。

   無辺なりけり山のむら雲
 一流の寸鑓の先や時雨るらん   一鉄

 寸鑓(すやり)は直鑓(すやり)で真っすぐな穂先のシンプルな鑓。
 前句の「無辺」を槍の一流派の無辺流として、山のむら雲を突き刺したから時雨が降ってきたとする。
 無辺流はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「無辺流」の解説」に、

 「近世槍術(そうじゅつ)の一流派。大内流ともいう。流祖は出羽(でわ)国横手(よこて)(現秋田県横手市)の人、大内無辺(生没年不詳)。無辺は壮年より槍術を好み、平鹿(ひらが)の真人山(まひとやま)(秋田県横手市)に祈念して槍術の神妙を開悟したといい、その子上右衛門、孫清右衛門とよくその業を継ぎ、清右衛門の門人椎名靭負佐(しいなゆきえのすけ)は大坂夏の陣に従軍して功名をたて、その門人小泉七左衛門吉久は大坂に住み無辺流を広めた。一方、無辺の甥(おい)山本刑部(ぎょうぶ)宗茂(むねしげ)は、越後(えちご)国(新潟県)村松(むらまつ)から江戸に出て山本無辺流を唱えたが、その孫加兵衛久茂(かへえひさしげ)は名手の聞こえ高く、1637年(寛永14)柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の別邸においてその妙技を将軍家光(いえみつ)の台覧に供したのをはじめ、しばしば台覧の栄を受け、1667年(寛文7)には男久明(ひさあきら)・久玄(ひさはる)を伴って将軍家綱(いえつな)の台覧を賜り、同年12月ついに御家人(ごけにん)に登用され、廩米(くらまい)200俵を給せられた。このほか羽州鶴岡(つるおか)の田村八右衛門秋義(あきよし)を祖とする無辺無極(むへんむきょく)流など、幾多の分流が全国に広がりをみせた。[渡邉一郎]」

とある。
 五十四句目。

   一流の寸鑓の先や時雨るらん
 分捕高名冬陣にこそ       志計

 大内流が名を上げるもとになったのは大坂夏の陣での椎名靭負佐の高名だが、その時の鑓はその前の冬の陣で時雨に紛れて拾ってきたものだった。嘘です。
 分捕高名はコトバンクの「世界大百科事典内の分捕高名の言及」に、

 「…ちなみに野伏(のぶし)などが活躍した後世の合戦では分捕勝手といって,単なる戦利品の略奪行為を意味するようになったが,元来は自己の戦功を示す証拠品として分捕した敵の首級とともに具足などを差し出す行為を意味した。それゆえに分捕は分捕高名などとも表現された。〈分捕高名と言ふ事は,其の首の一人の分を一人して取りたるを分捕高名と申すなり。…」

とある。
 五十五句目。

   分捕高名冬陣にこそ
 焼あとに残る松さへさびしくて  雪柴

 落城した大阪城の松であろう。冬の陣の分捕高名を思い出す。
 五十六句目。

   焼あとに残る松さへさびしくて
 三昧原に夕あらしふく      一朝

 「三昧原(さんまいばら)」は三昧場で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三昧場」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。葬場・火葬場もしくは墓地。三昧。〔書言字考節用集(1717)〕」

とある。火葬に用いた松の燃え残りが淋しい。
 五十七句目。

   三昧原に夕あらしふく
 千日をむすぶ庵の露ふかし    松臼

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注には「千日念仏」とある。千日念仏は大阪の法善寺で行われていたもので、、ウィキペディアに、

 「山城国宇治郡北山村に琴雲上人が開山として法善寺を建立する。寛永14年(1637年)、金比羅天王懇伝の故事により中誉専念上人が現在地に移転する。他説では、同年に現在の大阪市天王寺区上本町8丁目より現在地に移り、寛永21年(1644年)から千日念仏回向が始まったという。」

とあり、南地中筋商店街振興組合にホームページには、

 「寛永14年(1637)、刑場や墓地が広がる現在の大阪市中央区難波の地に法善寺は建立されました。ここで刑に処された人や埋葬された人々の霊を慰めるための千日念仏を唱えていたことから通称「千日寺」と呼ばれるようになり、その門前で栄える街は「千日前」と称されました。」

とある。
 五十八句目。

   千日をむすぶ庵の露ふかし
 邪見の心に月はいたらじ     正友

 千日念仏が刑死した人への弔いだから、庵をむすんだのはかつての悪行の仲間であろう。邪見を捨てれば仲間も成仏するが、悪行を繰り返すなら浮ばれない。真如の月の心に至ることはない。咎めてにはになる。
 五十九句目。

   邪見の心に月はいたらじ
 長き夜も口説其間に明はなれ   松意

 口説は「くぜつ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「口舌・口説」の解説」に、

 「く‐ぜつ【口舌・口説】
 〘名〙
  ① =くぜち(口舌)①②〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※日葡辞書(1603‐04)「Cujetno(クゼツノ) キイタ ヒト〈訳〉おしゃべりな人。雄弁な人」
  ② 江戸時代、主として男女間の言いあいをいう。痴話げんか。くぜち。くぜ。
  ※評判記・難波物語(1655)「口説(クゼツ)などしても、銭なければ、はるべき手だてもなく」

とあり「くぜち(口舌)①②」は、

 「① ことば。また、口先だけのもの言い。多弁。弁舌。くぜつ。こうぜつ。
  ② 言い争い。いさかい。口論。苦情。くぜつ。
  ※伊勢物語(10C前)九六「ここかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、くせちいできにけり」

とある。
 この場合は痴話げんかで、恋に転じたと見ていいだろう。
 長い夜も言い争うだけで明けてしまい、せっかくの月の夜も無駄になる。
 六十句目。

   長き夜も口説其間に明はなれ
 なみだの末は目やにとぞなる   卜尺

 一晩中言い争った涙はいつしか目やにになる。
 目やには「眼脂(がんし)」という皮膚の垢で、泣いたから出るというものでもないが。
 六十一句目。

   なみだの末は目やにとぞなる
 記念とはおもはぬ物をふくさもの 志計

 記念は「かたみ」とルビがある。
 「ふくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袱紗・服紗・帛紗」の解説」に、

 「① 糊(のり)を引いてない絹。やわらかい絹。略儀の衣服などに用いた。また、単に、絹。ふくさぎぬ。
  ※枕(10C終)二八二「狩衣は、香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色」
  ② 絹や縮緬(ちりめん)などで作り、紋様を染めつけたり縫いつけたりし、裏地に無地の絹布を用いた正方形の絹の布。贈物を覆い、または、その上に掛けて用いる。掛袱紗。袱紗物。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「太夫なぐさみに金を拾はせて、御目に懸ると服紗(フクサ)をあけて一歩山をうつして有しを」
  ③ 茶道で、茶器をぬぐったり、茶碗を受けたり、茶入・香合などを拝見したりする際、下に敷いたりする正方形の絹の布。茶袱紗、使い袱紗、出袱紗、小袱紗などがある。袱紗物。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「紫のふくさに茶わんのせ」
  ④ 本式でないものをいう語。
  ※洒落本・粋町甲閨(1779か)「『どうだ仙台浄瑠璃は』『ありゃアふくさサ』」

とある。②の袱紗で包んだものを袱紗物という。
 一般的な贈り物に用いられるが、遊郭でも遊女への贈り物にも用いられたのだろう。その袱紗が形見になってしまい、涙を「拭く」さになる。
 六十二句目。

   記念とはおもはぬ物をふくさもの
 あらためざるは父の印判     在色

 印判は花押の代わりに用いられる印鑑で、今日の実印の起源とも言えよう。
 袱紗物が亡き父の形見だとは思わず、中を調べてもみなかったが、そこには父の印判があった。
 印判そのものというよりは、印判を押してある遺言状が出てきたということだろう。まあ、遺産の分配でもめそうだ。
 六十三句目。

   あらためざるは父の印判
 借金や長柄の橋もつくる也    一朝

 長柄の橋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「長柄の橋」の解説」に、

 「大阪市北区を流れていた長柄川に架けられていた橋。弘仁三年(八一二)現在の長柄橋付近に架橋されたといわれる。
  ※古今(905‐914)恋五・八二六「あふ事をながらの橋のながらへて恋渡るまに年ぞ経にける〈坂上是則〉」
  [語誌](1)「難波なるながらのはしもつくる也今は我身を何にたとへん〈伊勢〉」〔古今‐雑〕のように古くなっていくものへの感慨を詠んだり、「芦間より見ゆるながらの橋柱昔の跡のしるべなりけり〈藤原清正〉」〔拾遺‐雑上〕のように朽ち残った橋柱によって往時を偲んだりする歌も詠まれた。
  (2)この橋は淀川河口近くのため洪水による損壊も多く、そのため、人を生きながら柱に入れ、その霊によって柱を強化しようとする「人柱伝説」でも有名。謡曲「長柄」はこの人柱伝説を素材としたもの。」

とある。

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
              伊勢(古今集)

の「つくる」が「造る」なのか「尽くる」なのか、諸説あるようだ。「ながら」は「永らえる」に掛る。
 この句の場合は、難波ということで「死一倍」ネタだろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「死一倍」の解説」に、

 「〘名〙 親が死んで遺産を相続したら、元金を倍にして返すという条件の証文を入れて借金すること。また、その借金や証文。江戸時代、借金手形による貸借は法令で禁止されていたが、主として大坂の富豪の道楽むすこなどがひそかに利用した。しいちばい。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「死一倍をなせ金衣鳥 耳いたき子共衆あるべく候 呉竹のよこにねる共ねさせまひ〈由平〉」

とある。
 親の遺産を当てにして借金しまくって遊んでたが、親父の遺書をきちんと把握してなかったので、長柄の橋も尽きてしまった。
 六十四句目。

   借金や長柄の橋もつくる也
 しまつらしきを何にたとへん   一鉄

 「しまつらしき」は「始末・らしき」か。始末はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「始末」の解説」に、

 「① 事の始めと終わり。始めから終わりまで。終始。本末。首尾。
  ※史記抄(1477)四「いかに簡古にせうとても事の始末がさらりときこえいでは史筆ではあるまいぞ」 〔晉書‐謝安伝〕
  ② 事の次第。事情。特に悪い結果。
  ※蔭凉軒日録‐延徳二年(1490)九月六日「崇寿院主出二堺庄支証案文一説二破葉室公一。愚先開口云。始末院主可レ被レ白云々。院主丁寧説破」
  ※滑稽本・八笑人(1820‐49)二「オヤオヤあぶらだらけだ。コリャア大へんな始末だ」
  ③ (━する) 物事に決まりをつけること。かたづけること。しめくくり。処理。
  ※多聞院日記‐永祿十二年(1478)八月二〇日「同請取算用の始末の事、以上種々てま入了」
  ※草枕(1906)〈夏目漱石〉二「凡ての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する」
  ④ (形動) (━する) 浪費しないこと。倹約すること。また、そのさま。質素。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Ximat(シマツ) アル ヒト」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「藤屋の市兵衛が申事を尤と思はば、始末(シマツ)をすべし」

とある。④の意味なら、いかにも倹約しているような、つまりケチくさい、ということか。
 借金をすれば長良の橋も作れるというのに、倹約臭さは何にたとえん、ということか。
 三裏、六十五句目。

   しまつらしきを何にたとへん
 初嫁は飯がい取てわたくしなし  正友

 「飯がい」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飯匙」の解説」に、

 「〘名〙 飯を器物に移し盛るための道具。いがい。しゃくし。しゃもじ。
  ※伊勢物語(10C前)二三「手づからいゐかひ取りて、笥子(けこ)のうつは物に盛りけるを見て」

とある。
 例文にある『伊勢物語』二十三段は有名な「筒井筒」で、高安の女が自分の手で飯匙を取って飯をよそってるのを見て、「心うがりて」通うのをやめるという場面だ。
 自分で飯をよそうことの何が悪いのか、と現代人だと首をかしげる所だが、昔はその辺の作法が何かあったのだろう。近代では女房がみんなの飯をよそうのが当たり前みたいなところがあるが。
 その習慣は江戸時代でも一緒だったのだろう。初めて迎えた嫁が自分で飯匙を取るのを見て、別に他意はないんだろうけどけち臭い、そういう感覚は平安時代から江戸時代まで変わらずにあったのだろう。
 あるいは、最初の一杯は神仏に供えるため男が盛らなくてはいけない、というのを無視したということか。
 六十六句目。

   初嫁は飯がい取てわたくしなし
 家子が中言うらみなるべし    雪柴

 家子(けこ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家子」の解説」に、

 「〘名〙 家の者。妻子、召使、弟子などの類。後世、特に「しもべ」の意に限っていう地方もある。いえのこ。
  ※竹取(9C末‐10C初)「然(しかる)に祿いまだ給はらず。是を給ひてわろきけこに給はせん」
  ※俳諧・芭蕉真蹟懐紙(酒に梅)(1685)「葛城の郡竹内に住人有けり。妻子寒からず、家子(けご)ゆたかにして、春田かへし、秋いそがはし」
  [語誌](1)「いへのこ」の漢字表記「家子」の「家」を音読みした語と説かれる。「いへのこ」が古く「万葉集」にあるのに対して、「けご」は挙例の「竹取物語」の用例が最も古い。
  (2)平安時代の貴族社会における「いへのこ」は名門の子弟などを指した。中世以降、「いへのこ」は従者の意も表わしたが、従者の中でも尊重される者に対して用いた。それに対して、「けご」は本来、妻子、弟子、召使など家に属する(主人以外の)者を一般的に指す語として用いられた。」

とある。
 中言(なかごと)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「中言」の解説」に、

 「① 両者の中に立って告げ口すること。なかごと。
  ※玉葉‐寿永二年(1183)一一月七日「義仲一人、漏二其人数一之間、殊成レ奇之上、又有二中言之者一歟」
  ② 他人のことばの途中に口をはさむこと。他人の談話中に話しかけること。ちゅうごん。
  ※滑稽本・続々膝栗毛(1831‐36)二「御中言(ごチウゲン)ではござりやすが、下十五日わたしのかたとおっしゃれば、もし小の月だと、此はう一千日の損」

とある。ここでは「なかごと」とルビがあるので①の方の意味になる。
 この場合の飯をよそうのではなく、飯匙を握ったまま、私は無実だと訴える場面になる。
 六十七句目。

   家子が中言うらみなるべし
 返事神ぞ神ぞとかく計      卜尺

 返事は「かへりごと」、神は「しん」とルビがある。
 「かへりごと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「返事・返言」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「かえりこと」)
  ① 使いの者が帰って報告することば。
  ※書紀(720)雄略即位前(図書寮本訓)「大臣、使を以て報(かヘリコトまうし)て曰く」
  ② もらった手紙や和歌、また、質問に対する返事。
  ※竹取(9C末‐10C初)「翁(おきな)かしこまりて御返事申すやう」
  ※源氏(1001‐14頃)夕顔「書きなれたる手して、口とくかへり事などし侍き」
  ③ 贈物の返礼。おかえし。
  ※土左(935頃)承平五年二月八日「ある人、あざらかなるものもてきたり、米(よね)してかへりことす」

とある。
 「神(しん)ぞ神ぞ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神ぞ・真ぞ」の解説」に、

 「〘副〙 (「神ぞ照覧あれ」の略で、決してこの誓いにそむくまいの意の自誓のことば) 神かけて。ほんとうに。心から。かならず。
  ※歌舞伎・いとなみ六方(1674頃)「うなぎにはあらねども、しんぞ此身は君ゆへに」

とある。
 家子の告げ口に「神にかけて誓う」とだけ返事する。
 六十八句目。

   返事神ぞ神ぞとかく計
 あはれふかまを待し俤      松臼

 「ふかま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「深間」の解説」に、

 「① 川・谷などの深いところ。深み。
  ※類従本素性集(10C前)「あふみのや深まの稲を苅つめて君か千年のありかすにせん」
  ② 男女関係で深い仲になること。また、その情交の相手。間夫(まぶ)。情人。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「返事神ぞ神ぞとかく斗〈卜尺〉 あはれふかまを待し俤〈松臼〉」
  ③ 人や物事との関係が好ましくない方に進んで、そこから抜け出しにくい情況。
  ※死の棘(1960)〈島尾敏雄〉「前よりもいっそう深まにはまりこんで救いがたくなった」

とあり、ここでは②の意味になる。「神ぞ神ぞ」と言ってはいるけど、いかにも愛人を待っているかのようだ。
 六十九句目。

   あはれふかまを待し俤
 友だちのかはらでつもる物語   在色

 友達と久しぶりに会って、お互い変わってないなと話が盛り上がって行く様が、まるで愛人に出もあったかのようだ。
 七十句目。

   友だちのかはらでつもる物語
 十万億の後世のみちすぢ     松意

 「十万億」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十万億仏土」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。この世から西方の極楽浄土に行くまでにある無数の仏土。また、極楽浄土のこと。十万億。十万億土。十万億刹の土。
  ※仮名草子・夫婦宗論物語(1644‐46頃)「又有時は、過十万億仏土(オクブツド)有世界と説(とき)、或は勝過三界道と宣給ふ」 〔阿彌陀経〕」

とある。
 年を取ると、どうしても話題が極楽浄土や後生の話となる。
 七十一句目。

   十万億の後世のみちすぢ
 数珠袋こしをさる事すべからず  一鉄

 極楽浄土や次の生まれ変わりなどの長い旅路には、数珠袋を常に腰に付けておくこと。
 七十二句目。

   数珠袋こしをさる事すべからず
 隠居の齢ひ山の端の雲      志計

 「山の端の雲」というと、

 終り思ふ心の末の悲しきは
     月見る西の山の端の雲
              慈円(玉葉集)

の歌がある。御隠居さんも終わりを思う齢いとなり、数珠袋を手放さない。
 七十三句目。

   隠居の齢ひ山の端の雲
 御病者は三室の奥の下屋敷    雪柴

 御病者は「ごぼうざ」とルビがある。病人のこと。

 神南備の三室の山に雲晴れて
     龍田河原にすめる月影
              藤原範兼(続後拾遺集)

の歌があるが、病気の御隠居は三室の奥に住む。
 七十四句目。

   御病者は三室の奥の下屋敷
 ただ好色にめづる月影      一朝

 神南備の三室の龍田川とくれば、

 千早ぶる神代もきかず龍田川
     からくれなゐに水くくるとは
              在原業平(古今集)

の歌がよく知られている。業平のように好色に月を愛でるということか。
 七十五句目。

   ただ好色にめづる月影
 虫の声かかるも同じぬめりぶし  松臼

 ぬめり節はぬめり歌のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「滑歌」の解説」に、

 「① 江戸時代、明暦・万治(一六五五‐六一)のころ、遊里を中心に流行した小歌。「ぬめり」とは、当時、のらりくらりと遊蕩する意の流行語で、遊客などに口ずさまれたもの。ぬめりぶし。ぬめりこうた。
  ※狂歌・吾吟我集(1649)序「今ぬめり哥天下にはやること、四つ時・九つの真昼になん有ける」
  ② 歌舞伎の下座音楽の一つ。主に傾城の出端に三味線、太鼓、すりがねなどを用いて歌いはやすもの。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)口明「ぬめり哥にて、大橋、傾城にて出る」

とある。
 遊郭で歌う滑歌は虫の声のようなもので、好色に月影を愛でている。
 七十六句目。

   虫の声かかるも同じぬめりぶし
 釜中になきし黒豆の露      正友

 釜中は「ふちう」とルビがある。虫の声に草の露が付き物なように、ぬめり節には釜の中で煮えている黒豆が付き物ということになる。黒豆の煮汁は喉に良いという。
 七十七句目。

   釜中になきし黒豆の露
 あをによし奈良茶に花の香をとめて 松意

 奈良茶はここでは奈良茶飯のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奈良茶飯」の解説」に、

 「① 薄く入れた煎茶でたいた塩味の飯に濃く入れた茶をかけて食べるもの。また、いり大豆や小豆(あずき)・栗・くわいなどを入れてたいたものもある。もと、奈良の東大寺・興福寺などで作ったものという。ならちゃがゆ。ならちゃがい。ならちゃ。〔本朝食鑑(1697)〕
  ② 茶飯に豆腐汁・煮豆などをそえて出した一膳飯。江戸では、明暦の大火後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となった。〔物類称呼(1775)〕」

とある。ここでは江戸なので②の方で、奈良茶飯に浅草の桜の香りを留めて、釜で煮た黒豆を添える。
 七十八句目。

   あをによし奈良茶に花の香をとめて
 一座の執筆鳥のさへづり      卜尺

 一座、執筆とくれば、連歌か俳諧。
 前句の「奈良茶」は普通に奈良のお茶のこととする。
 「あをによし」などという枕詞を用いたり、どこか連歌っぽい句なので、挙句の前の最後の花の句として、一座の執筆が「鳥のさへづり」と挙句を付ける。
 前句の「とめて」は書き留めるの意味と掛ける。

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