日本には連合軍の戦後処理のために作られた憲法第九条があるため、特に日本で「反戦」という言葉は、単に戦争に反対するというだけの意味ではなく、侵略を受けた際の一切の抵抗を禁じる、という意味を持っている。
今の日本で「反戦」を口にすることに抵抗があるのは、例えば今回のウクライナの件でも、口ではロシアを非難していても、「反戦」という言葉はウクライナ軍に抵抗をやめて非武装中立を受け入れろというメッセージとして受け取られる危険があるからだ。
これが例えば、日本がロシアの侵略を受けた場合を考えればいい。「反戦」は奴らの主張からすれば、憲法第九条に反する憲法違反の自衛隊に、一切武力による抵抗をするな、というメッセージになる危険がある。自衛隊の立場からすれば、これを受け入れることができないのは当然だ。
日本の「反戦」(hansen)≠NO WARなのでそこんとこよろしく。
この「反戦」勢力が、ロシアと戦う前に人間の盾として立ち塞がり、ロシアの進軍を助けたらどうするのか。それについてのシミュレーションは当然やっておかなくてはならない。
ただ、基本的にはデモや座り込みなどの行動であれば自衛隊を煩わすようなことではなく、愛国的な市民のカウンターデモで蹴散らすべきだ。奴らは所詮少数派だし、その多くは年寄りだ。そういう場面なら筆者のようの御老体でも役に立てるかもしれない。
多分日本だけの問題でもないだろう。アメリカやNATOがウクライナへの参戦は愚か、武器供与まで渋る背景にあるのも、反戦=無抵抗という連中が世界的にある程度の数いるからだと見ていい。
それは例えて言えば、最愛の妻が目の前で凌辱されても、一切手出しをするなという思想だ。
筆者はもちろん侵略者に対して勇敢に戦うコサックの子孫を支持することで、世界の平和に賛成します。
あと、「新撰菟玖波祈念百韻」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き。
初裏、九句目。
古枝の小萩なほ匂ふ比
霧のぼる夕日がくれの水晴れて 心恵
「霧のぼる夕日」というと、
村雨の露もまだひぬ真木の葉に
霧たちのぼる秋の夕暮れ
寂蓮法師(新古今集)
の歌が思い浮かぶ。霧が晴れて行く中に夕日が赤く射す瞬間は、確かに美しい。
「水晴れて」という言い回しは日文研の和歌検索データベースではヒットしなかった。寂蓮の和歌の山の中の景色を水辺の景色に移し、小萩のまだ匂う季節に当てはめる。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
秋の日の夕の河や晴れぬらん
嵐に消ゆる雲霧の空
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。水辺の霧を読む典拠か。
十句目。
霧のぼる夕日がくれの水晴れて
川そひ舟をさすや釣人 宗砌
「水晴れて」で水辺が出たので、その景色を付ける。瀟湘八景の漁村夕照であろう。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
河づらにさをさし急ぐ釣人も
岸の干がたに舟やよすらん
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「釣人(つりびと)」という言葉の典拠か。
釣人(つりびと)という言葉は、日文研の和歌データベースでは
かも川のかもの川瀬の釣人に
あらぬ我が身も濡れまさりけり
番号外作者(夫木抄)
鷺のゐる舟かと見れは釣人の
蓑しろたへにつもる白雪
正徹(草魂集)
の二例がヒットする。
十一句目。
川そひ舟をさすや釣人
笠にぬふ岩本菅のかりの世に 専順
釣人の笠は岩本菅で編んだものだった。菅を刈るに仮の世と掛ける。
この世を仮の世と割り切って、ひょうひょうと生きる釣り人は、『楚辞』の「漁父」を思わせる。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
よをすげをいやしき賤がかりのよは
笠のは伝ふ露ぞ袖ぬる
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。おそらく「仮の世」と「刈る」を掛けることの典拠であろう。
風そよぐ篠の小笹のかりのよを
思ふねざめに露ぞこぼるる
守覚法親王(新古今集)
にも典拠がないわけではない。
水辺の岩本菅は、
おもひかは岩本菅を越す浪の
ねにあらはれて濡るる袖かな
番号外作者(続千載集)
浪かかる袖となみせそ磯山の
岩本菅のねにはたつとも
番号外作者(新続古今集)
などの例がある。
十二句目。
笠にぬふ岩本菅のかりの世に
のこる桜をかざす夏山 忍誓
この世は仮の世ということで、桜の花も仮の華やかさにすぎず、いつしか散って夏山となる。
桜は散っても自分はまだこの仮の世に、簑笠に身をやつしながら生き永らえている。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
桜ちる山路の雨に立ちぬれて
尋ねもやせん春の行く方
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。何の典拠かよくわからない。
十三句目。
のこる桜をかざす夏山
手向して春や行きけん神まつり 行助
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、賀茂祭とある。賀茂祭は卯月の酉の日に行われ、初夏のものになる。
「本歌連歌」の本歌は、
さを姫の神こそ春の手向なれ
ちれる桜をぬさとはやせば
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。神の手向けの桜を詠む典拠か。
神祇の桜と言えば、
ゆふたたみ手向けの山の桜花
ぬさもとりあへず春風ぞ吹く
九条道家(新千載集)
の歌があるが、八代集よりはかなり後になる。
十四句目。
手向して春や行きけん神まつり
苗代垣の道の一すぢ 心恵
卯月の賀茂祭の参道は、まだ田植前の苗代の稲の緑に育つ中の道になる。
近世だと『猿蓑』の「灰汁桶の」の巻三十句目に、
堤より田の青やぎていさぎよき
加茂のやしろは能き社なり 芭蕉
の句がある。
「本歌連歌」の本歌は、
かよふ人野守の道はさまざまに
苗代垣の末のとほさよ
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「苗代垣」の典拠であろう。
苗代垣というと、
しめはふる苗代垣のけしきまで
植ゑむ田面のほどぞ知らるる
藤原俊成(俊成五社百首)
の歌があるにはある。
十五句目。
苗代垣の道の一すぢ
賤が屋に靡く霞は煙にて 宗砌
賤が屋にも今日も煙が立ち、ちゃんと飯が食えていることが知られる。賤が屋の炊飯の煙は春の霞のようにお目出度い。苗代の稲も育ち、今年も豊作を祈るのみ。
「本歌連歌」の本歌は、
雲まよふ春されさむし山陰に
煙ほのかに見ゆる賤が屋
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「賤が屋」の煙の典拠であろう。
「賤が屋」という言葉はないが、賤の煙を詠んだものに、
うきわざを柴屋のけぶり山陰に
たな引くさへもしづのをだ巻
正徹(草魂集)
の歌がある。
十六句目。
賤が屋に靡く霞は煙にて
今はたこゆる年ぞにぎはふ 専順
霞を春の初霞として新年の賀歌とする。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
貢物許されて國富めるを御覧じて
高き屋に登りて見れば煙立つ
民のかまどはにぎはひにけり
仁徳天皇(新古今集)
で、賤の煙を賀歌に詠む典拠となる。
十七句目。
今はたこゆる年ぞにぎはふ
花薄末葉ほのめく秋の風 忍誓
秋の風が花薄の穂を越える、とする。
風越ゆる十市の末を見渡せば
雲にほのめく小野の茅原
賀茂季保(正治後度百首)
の歌がある。
「本歌連歌」の本歌は、
山賤の梢嵐のゑのこ草
今はた越えてほに出づるらし
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「風にほのめく」の典拠だろうか。
ゑのこ草は、
ゑのこ草をのがころころ穂に出でて
秋おく露の玉やとるらむ
藤原為家(夫木抄)
に用例がある。
十八句目。
花薄末葉ほのめく秋の風
袂涼しくうつる稲妻 行助
秋風に遠い稲妻の光りが袂を照らすと、秋も涼しい季節となる。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注の「本歌連歌」の本歌は、
秋の野の草の袂が花すすき
ほに出てまねく袖と見ゆらむ
在原棟梁(古今集)
だという。
薄の揺れる姿が人を招いているように見えるという趣向は、俳諧でもしばしば見られるもので、その典拠となる歌には違いない。
村すすきまねくをみれは出でやらで
秋のほならす野べのいなづま
正徹(草魂集)
の歌もある。
十九句目。
袂涼しくうつる稲妻
月にしけ宵のまどほの小夜衣 宗砌
「まどほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「ま-どほ 【間遠】
名詞
①間隔があいていること。
②編み目や織り目があらいこと。」
とある。
須磨の蜑のしほやき衣をさをあらみ
まどほにあれや君かきまさぬ
よみ人しらず(古今集)
須磨の蜑のまどほのころも夜や寒き
浦風ながら月もたまらず
藤原家隆(新勅撰集)
などの用例がある。蜑の衣として詠まれることが多い。
須磨の月と言えば在原行平か『源氏物語』須磨巻かというところだが、「まどほ」という言葉はそうした須磨の配流か隠棲で配所の月を見るイメージで、海士のまどほの衣を敷いて稲妻の宵に月を待つ、ということになる。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、
有明の月待つ宿の袖の上に
人だのめなる宵の稲妻
藤原家隆(新古今集)
の歌を引いている。
「本歌連歌」の本歌は、
夕されの春間になびく稲妻は
袂涼しくうつる秋風
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。稲妻の袂涼しくに宵を付ける典拠か。
ニ十句目。
月にしけ宵のまどほの小夜衣
君がおき行く暁はうし 忍誓
在原行平の海女との恋のイメージで、後朝を付ける。宵の小夜衣に、暁と違えて付ける。
「本歌連歌」の本歌は、
暁のうき別れをばしらずして
逢ふはうれしき宵の手枕
で、『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注に、「『和歌集心躰抄抽肝要』下、恋分に見える。連歌師相伝の俗歌)。」とある。『和歌集心躰抄抽肝要』は二条良基。
正式な歌集にはないが、当時の連歌師に知られた俗歌が多数あって、それを本歌とするなら、和歌検索データベースでヒットしないのも当然だろう。
宵に逢う嬉しさに、暁の憂きを対比させる趣向の典拠となる。
二十一句目。
君がおき行く暁はうし
霜枯の野上の宿を名残にて 心恵
野上はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野上」の解説」に、
「[1] 〘名〙 野の上の方。
※俳諧・望一後千句(1652)三「うつなく野かみをさはき狂ひ出て とらへをきしもいまたあら駒」
[2] 岐阜県不破郡関ケ原町の地名。古代、東山道の重要な宿駅。壬申の乱では大海人皇子の本陣があった。」
とある。宿というからには[2]の意味か。近世でも中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿になる。旅体に転じる。
「本歌連歌」の本歌は、
冬がれの草の枕の別路に
野上の宿の跡も忘れず
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。「野上の宿」もヒットしないので、この言葉も俗歌の典拠であろう。
「野上の里」の用例はいくつかある。
二十二句目。
霜枯の野上の宿を名残にて
時雨関もる不破の山道 専順
冬の野上の宿に時雨の不破を付ける。
「本歌連歌」の本歌は、
さゆる夜の軒のいたやにふる時雨
明けても寒き不破の山みち
だが、日文研の和歌データベースではヒットしなかった。
不破の関の時雨の典拠であろう。
肖柏の和歌なので、この連歌より後になるが、
真木の葉のなほいかならむ袖のうへを
不破の関屋にふる時雨かな
肖柏(春夢草)
の歌がある。
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