デモが力を持つとすれば、それは「これだけの人数が武器を取って戦ったらどうなるか思い知れ」というデモンストレーションだった時だけだ。
ところが兵器の発達で近代初期のデモに比べてその効果は限定的になっている。連射式の銃の登場は一人で多くの人を殺害することが可能になった。戦争でも隊列を組んだ行軍から塹壕を掘っての戦いに戦術を変化させた。デモ隊という言葉もあるが、隊列を組んだ行進に威嚇の効果はなくなった。
丸腰デモ隊が戦車と自動小銃の前にいかに無力だったかは、天安門事件が証明している。
ゼネストという戦術はハンストのようなもので、自分自身に跳ね返ってくる捨て身の戦法になる。これは決意の強さをアピールするだけで、デモと同様、武力闘争になった時の軍のモラルの高さをアピールするにとどまる。
動物の戦いでも威嚇だけで勝負を決めればお互い体を痛めつけずに済む。本来こうした民衆闘争は、実際に武装蜂起しなくても、威嚇だけで相手をひるませて、互いに兵の損失をなくすという知恵だったのだろう。
ただ、兵器の進歩で軍隊と民衆との間に明白な装備の差が生じてしまったとき、威嚇が威嚇にならなくなってしまった。ウクライナが香港やミャンマーの真似をしなかったのは正しい。
例え世界中で反戦デモが巻き起こったとしても、そのデモがその国の軍隊を動かす力がないなら、ロシア軍に対抗するすべもない。だから「反戦デモ」では駄目なんだ。「反ロシアデモ」でなくてはならない。
ロシア人も平和デモで無駄に命を捨てない方が良い。デモを煽っている人たちは彼らがミンチにされても責任取れるのか。
それにしてもマス護美はロシア軍快進撃の大本営発表ばかりだね。ロシア側の情報を報道し、ロシア贔屓の学者にコメントさせる。まあ、戦争でもコロナでも恐怖を煽れば売り上げアップってことかな。日本の大衆はそんな馬鹿ではないけどね。
それでは「宗伊宗祇湯山両吟」の続き。挙句まで。
今この時期に連歌を読むのに特に意図はなかったが、よくよく考えると俳諧や源氏物語は平和な時代の文学だが、宗祇の時代の連歌は戦国時代の文学で、今の状況に合っているのかもしれない。名だたる武将をも虜にしたという連歌とは一体何だったのか。
殺伐とした時代に忘れがちな人間の優しい心を、思い出させてくれるから、なのかもしれない。「たけきもののふのこころをなぐさめ」と古今集仮名序にもある。
名残表、七十九句目。
かへるやいづこすまの浦浪
秋ははや関越えきぬと吹く風に 宗伊
須磨の関もまた和歌に多く詠まれれいる。ここでは須磨の関を越えて行く流人とする。
秋風の関吹き越ゆるたびごとに
声うち添ふる須磨の浦波
壬生忠見(新古今集)
の歌もあるが、秋風に関を越えるというと、
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
能因法師(後拾遺集)
の歌も思い浮かぶ。
八十句目。
秋ははや関越えきぬと吹く風に
引く駒しるし霧の夕かげ 宗祇
関はここでは逢坂の関のような山の中の関で、ひっきりなしに荷物を積んだ馬が通る。その姿が霧の中でもはっきりと見える。
八十一句目。
引く駒しるし霧の夕かげ
とやだしのたかばかりしき一夜ねん 宗伊
「とやだし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥屋出」の解説」に、
「〘名〙 鳥屋ごもりをしていた鷹を、その時期が終わって鳥屋から出すこと。とやいだし。
※正治初度百首(1200)冬「暮ぬ共はつとやたしのはし鷹をひとよりいかが合せざるべき〈小侍従〉」
とある。
ここでは鷹ではなく鳥屋出の鷹に掛けて「竹葉(たかは)」を導き出し、竹の葉を敷いた仮の寝床で一晩寝る、とする。駒引く人の仮の宿とする。
八十二句目。
とやだしのたかばかりしき一夜ねん
月にとまるも山はすさまじ 宗祇
前句を鳥屋出の鷹の「鷹場(たかば)」に一夜寝んということにして、月の照らす山に泊まるとする。
八十三句目。
月にとまるも山はすさまじ
岩の上に身を捨衣重ねわび 宗伊
岩の上に身を捨てる」というのは世捨て人となって岩屋で暮らすということで、「身を捨て」から「捨て衣」を導き出し、それを重ね着する。なぜなら山は冷(すさ)まじいからだ。
捨て衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「捨衣」の解説」に、
「〘名〙 着る人もなく打ち捨てられた衣服。また、一説に、死人に衣をそえて捨てること。
※後撰(951‐953頃)恋三・七一八「すずか山いせをのあまのすてごろもしほなれたりと人やみるらむ〈藤原伊尹〉」
とある。
八十四句目。
岩の上に身を捨衣重ねわび
苔の下とも誰をちぎらん 宗祇
岩窟の苔の中で誰かに恋して契りを結ぶことなどあるだろうか。
八十五句目。
苔の下とも誰をちぎらん
この世だにあふせもしらず渡川 宗伊
前句の「苔の下」を「草葉の陰」などと同様の死後の世界のこととして、生きてる間に逢えないなら、せめて来世でもこの川を渡って逢いに行きたい、とする。入水の暗示とも言えよう。
「誰をちぎらん」は「あなただけですよ」という意味になる。
八十六句目。
この世だにあふせもしらず渡川
涙の水のなほまされとや 宗祇
逢うことのできない涙の水はこの川にも勝る。
八十七句目。
涙の水のなほまされとや
引きとめぬ江口の舟のながれきて 宗伊
江口の遊女に関しては、コトバンクの「世界大百科事典内の江口の遊女の言及」に、
「…江口の地が史上にその名を知られるのは,交通の要衝であることから生み出された遊興施設の存在であり,なかでも観音,中君,小馬,白女,主殿をはじめとする遊女が,小端舟と呼ばれる舟に乗って貴紳の招に応じたことは,当時の日記が多く物語る。住吉社や熊野等への参詣時における貴族と遊女の交流の中から,芸能や文学が生み出されており,《十訓抄》に〈江口の遊女妙は新古今の作者也〉とみえるのをはじめ,《梁塵秘抄口伝集》に〈其おり江口・神崎のあそび女ども今様を唱その声又かくべつなり。(中略)昔は江口・神崎の流と云て,いま江口・神崎に有所の伝来の今様ハ〉等とある。…」
とある。『新古今集』の、
天王寺に參り侍りけるに俄に雨降りければ
江口に宿を借りけるに貸し侍らざりければよみ侍りける
世の中をいとふまでこそ難からめ
假のやどりを惜しむ君かな
西行法師
返し
世をいとふ人とし聞けば假の宿に
心とむなと思ふばかりぞ
遊女妙
の問答や、謡曲『江口』でも知られている。古典の題材であり、この当時はどうだったかはよくわからない。
前句の「涙の水」の水に掛けて、舟に乗ってやって来る江口の遊女の涙とする。
八十八句目。
引きとめぬ江口の舟のながれきて
見れば伊駒の雲ぞ明け行く 宗祇
江口は今の東淀川区の辺の淀川沿いで、東には生駒山がある。ここは景色と時候で流す。
八十九句目。
見れば伊駒の雲ぞ明け行く
花やまづいとも林ににほふらん 宗伊
「いとも」は強調の言葉で、今日でも「いとも簡単」という言い回しに名残がある。
生駒の尾越しの桜は中世の和歌に頻繁に詠まれていて、
難波人ふりさけ見れは雲かかる
伊駒の岳の初桜花
九条行家(弘長百首)
伊駒山あたりの雲と見るまでに
尾越しの桜花咲きにけり
九条教実(夫木抄)
咲きにけり雲のたちまふ生駒山
花の林の春のあけほの
藤原為家(夫木抄)
などの歌がある。雲や林とともに詠むものだった。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『伊勢物語』六十七段を引いていて、そこでは雪が降った白い林を花に喩えて、
昨日けふ雲のたちまひかくろふは
花のはやしを憂しとなりけり
の歌が見られる。これが元になって歌枕になったのだろう。
九十句目。
花やまづいとも林ににほふらん
春に声する鳥の色々 宗祇
花の林に鳥の声は、
暮れてゆく春の契もあさ明の
花のはやしの鳥のこゑかな
正徹(草魂集)
の歌がある。「花鳥」という言葉もあり花と鳥は対になるものだが、花の林に鳥は珍しい題材だったのだろう。
九十一句目。
春に声する鳥の色々
袖かへすてふの舞人折をえて 宗伊
雅楽の『胡蝶楽』であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胡蝶楽」の解説」に、
「雅楽の曲名。高麗楽で、高麗壱越調(こまいちこつちょう)の童舞。四人の小童が背に胡蝶の羽をつけ、山吹の花を挿頭(かざし)にし、手に山吹の花枝を持って舞うもの。「迦陵頻」と対で舞われることが多い。平安時代、延喜六年(九〇六)または延喜八年宇多法皇が童相撲御覧の時、藤原忠房が作曲したという。舞は敦実(あつみ)親王の作。胡蝶。蝶。胡蝶の舞。〔二十巻本和名抄(934頃)〕」
とある。春に舞われた。
『新潮日本古典集成33 連歌集』の注は『源氏物語』胡蝶巻の、
「春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。」
を引いている。
作者の紫式部の胡蝶の舞は知っていて、それをもっと豪華にという所で物語の中で、童の数を倍の八人にし、残りの四人に鳥の舞を舞わせたのであろう。
前句の鳥をその鳥の舞とすると、源氏物語のこの場面になる。
九十二句目。
袖かへすてふの舞人折をえて
あそぶもはかなたはぶれも夢 宗祇
胡蝶といえば『荘子』の「胡蝶の夢」。胡蝶も舞の感想のように、こうやって楽しく遊ぶのも、みんな夢なんだろうな、とする。
名残裏。九十三句目。
あそぶもはかなたはぶれも夢
いくほどと命のうちをおもふらん 宗祇
これから先どれほど生きられるかと思うと、遊んでも楽しみ切れないし、戯れてもどこか上の空になってしまう。
九十四句目。
いくほどと命のうちをおもふらん
あすをまたんもしらぬ恋しさ 宗伊
明日には死ぬかと思っても、恋しさは変わらない。
九十五句目。
あすをまたんもしらぬ恋しさ
いたづらにたのめし月を独みて 宗祇
前句の「明日を待たん」を単純に明日は通って来るかと愛しい人を待つ女心として、今日は月だから来てくれるだろうか、とする。
九十六句目。
いたづらにたのめし月を独みて
秋風つらくねやぞあれ行く 宗伊
月を見ていつかは来てくれると待ち続けて、また今年も秋が来て、年々閨も荒れ果てて行く。『源氏物語』蓬生であろう。
九十七句目。
秋風つらくねやぞあれ行く
虫の音や軒のしのぶみにだるらん 宗祇
「軒のしのぶ」というと、
百敷や古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり
順徳院(続後撰集)
の歌も思い浮かぶ。
宮中に限らなくても、荒れていく屋敷の軒端のしのぶにも昔を偲ぶ、となる。
九十八句目。
虫の音や軒のしのぶみにだるらん
はのぼる露のたかき荻はら 宗伊
「葉のぼる露」というと、
草の原葉のぼる露をやがてまた
しづくに見せて月落ちにけり
飛鳥井雅縁(為尹千首)
雨おもき籬の竹の折れかへり
くたれ葉のぼる露の白玉
藤原為家(藤河五百首)
などの歌がある。
露というと萩の下露で、荻というと荻の上風だが、荻の葉のぼる露の発想は珍しい。
九十九句目。
はのぼる露のたかき荻はら
閑なる浜路のしらす霧晴れて 宗祇
荻はらを白洲の荻原として、水辺に転じる。霧が晴れて光が差し込むと、露がきらきら輝く。
挙句。
閑なる浜路のしらす霧晴れて
島のほかまでなびく君が代 宗伊
浜路の白洲は雅歌だと、真砂の砂の数を「君」の長寿に喩えることが多いが、ここでは霧が晴れてはるか遠くまで見渡せることで、「君」の支配する地域の広さとし、一巻は目出度く終わる。
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