2022年7月8日金曜日

 ボリス・ジョンソンさんが辞任したと思ったら、今日は安倍さんが撃たれて、つい今しがた亡くなったという報道があった。
 安倍さんのまだなくなる前だったが、『恒久平和のために(仮)』というのを書いてみたけど、まあ、いつもここに書いているようなことを、ちょっと長くしたような内容だけどね。本としては短い、小冊子程度のものだから、99円は高いと思うかもしれない。
 まあ、こういう時代だから、何か言いたい人は気軽にKindle ダイレクト・パブリッシングで出版してみるといいんじゃない。

 それでは「東路記」の続き。

 「〇大津とおい分の間に、大谷と云所に、はしり井と云井、南の方にあり。おい分は、京と伏見へゆく道のちまた也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30~31)

 大谷は京阪京津線大谷駅があり、逢坂の関跡より少し先になる。山科盆地へ降りる途中の国道1号線沿いの南側に月心寺という寺があり、そこに走井がある。
 山科盆地に出た所に京阪京津線追分駅がある。駅の近くに髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)があり、ここが京都へ向かう東海道と伏見に向かう大津街道の分岐点になる。

 「大津と伏見の間に、勧修寺の茶屋有。是を大亀谷と云は非なり。茶、こがらしなど多く売所なり。むかへに勧修寺御門跡あり。其辺に宮道の弥益の社有。夫婦の社なり。醍醐天皇の御外祖父なり。其事は宇治物語などにあり。道ばたの北のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 勧修寺は山科盆地の南の端で、近くを名神高速(中央自動車道西宮線)が通っている。京都市営地下鉄東西線の小野駅があり、このあたりが歌枕にあった小野の一つだった。
 勧修寺はウィキペディアに、

 「勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派の大本山の寺院。山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。」

とある。
 門跡は皇族や公家が住職を務める寺院のことで貝原益軒も「勧修寺御門跡」と表記している。昔は大津街道の反対側の南側に茶屋があったようだ。勧修寺下ノ茶屋町の地名が残っている。大亀谷はここから深草の山を越えたJR藤森駅の方にある。
 勧修寺の近くには吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)がある。男石女石を一対にした「安産の神」がある。

 「〇京の方へゆけば、山科の前に左へ行道あり。是は、しる谷越にゆき、清水の下へ通る道也。清水の南の山辺を、苦集滅道と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 しる谷越えの道は渋谷街道で、渋谷(しぶたに)を「しるたに」と呼ぶこともあった。元は滑谷(しるたに)だったとも言う。今はJR東海道本線や国道一号線が京都に入るその近くを越えて行くと、清水寺の南に出る。。髭茶屋追分で大津街道に入って少し行った所に渋谷街道の分岐点があった。
 渋谷街道の清閑寺から清水寺へ行道は苦集滅道(くずめじ)と呼ばれていた。苦集滅道(くじゅうめつどう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苦集滅道」の解説」に、

 「〘名〙 (duḥkha-samudaya-nirodha-mārga の意訳) 仏語。仏教の根本教理を示す語。苦は人生における苦しみで四苦八苦をさし、集は苦の原因である煩悩の集積のこと、滅はその煩悩を滅し尽くした涅槃(ねはん)を意味し、道は涅槃に達するための方法で八正道のこと。釈迦はこの理を悟って成仏した。四諦(したい)。くじゅめつどう。くずめつち。
  ※正法眼蔵(1231‐53)摩訶般若波羅蜜「また四枚の般若あり。苦・集・滅・道なり」 〔北本涅槃経‐一二〕」

とある。

 「山科、すべて八郷あり。僧正遍照が居たりし花山と云所も道の左にあり。遍照が居たる寺あり。元慶寺と云。此辺に、しぶ柿の木多し。はたけは、みな柿園なり。凡、幾千株と云事をしらず。伏見山の桃のごとし。
 京へ行くかい道の右に、陵と云村有。天智天皇の御陵あり。此辺の野を御廟野といふも此故なり。御上洛の時、京都町々の年寄共、皆、此野に御迎に出て、拝謁す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 山科の八郷というのは古代宇治郡の八郷のことであろう。ウィキペディアに、「大国郷、賀美郷、岡屋郷(乎加乃也)、餘戸郷、小野郷(乎乃)、山科郷(也末之奈)、小栗郷(乎久留須)、宇治郷」とある。
 花山は渋谷街道の峠の辺りにその地名が残っている。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「遍昭」の解説」に、

 「816-890 平安時代前期の僧,歌人。
弘仁(こうにん)7年生まれ。桓武(かんむ)天皇の孫。良岑安世(よしみねの-やすよ)の子。素性の父。蔵人頭(くろうどのとう)のとき仁明(にんみょう)天皇の死で出家,天台の僧となる。京都花山(かざん)に元慶寺をひらき座主(ざす)となり,花山僧正とよばれた。仁和(にんな)元年僧正。六歌仙,三十六歌仙のひとりで,「古今和歌集」以下の勅撰集に35首とられる。寛平(かんぴょう)2年1月19日死去。75歳。俗名は良岑宗貞(むねさだ)。名は遍照ともかく。家集に「遍昭集」。」

とある。元慶寺(がんぎょうじ)は今もあるが、ウィキペディアには「現在の建物は安永年間(1772年 - 1781年)の再建と伝わる。」とある。昔はこの辺りで柿の栽培が行われていたのだろう。渋柿は染料としての柿渋の生産としても重要だった。
 『阿羅野』の「月に柄を」の巻十三句目の、

   月の夕に釣瓶縄うつ
 喰ふ柿も又くふかきも皆渋し   傘下

は山科の柿だったのかもしれない。
 東海道の山科の出口の方には今も御陵のつく地名があり、地下鉄東西線に御陵駅がある。天智天皇山科陵 (御廟野古墳)がある。

 「日の岡、嶺に坂有。日の岡と云里あり。其さきに義経のけあげの水あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この先山に入ると日ノ岡峠になる。峠を越えると地下鉄東西線の蹴上駅がある。近くに本願寺水道水源地があり、この辺りは水の脇出る場所だったようだ。
 義経がまだ牛若丸だったころ、金売吉次の案内で奥州平泉に行く時、日ノ岡峠で喧嘩をしたエピソードによるもののようで、相手の馬が水を跳ねたからだとか、切り捨てた後の刀を洗ったからだとか、諸説あるようだ。

 「粟田口、京より東国へ出口なり。道の南、青蓮院御門跡あり。左の山上に将軍塚あり。道よりは見えず。右に南禅寺、黒谷、吉田、白川の方に行道在。粟田山は名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この辺り一帯は粟田口と呼ばれていて、ここから先が京になる。京を出る人からすれば東国への出口になる。
 峠を降りて三条の道に入ると左に青蓮院門跡がある。ウィキペディアに、

 「青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。」

とある。
 将軍塚はその裏の山の上にある。この山は清水寺の山に繋がっている。
 南禅寺は三条の道に入る所の右側にある。
 「黒谷、吉田、白川の方に行道」は今の白河通りであろう。
 粟田山は、

 粟田山越ゆとも越ゆと思へども
     なほ逢坂は遥けかりけり
              よみ人しらず(夫木抄)
 見るたびに煙のみたつ粟田山
     はれぬ悲しき世をいかにせむ
              よみ人しらず(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「白川橋、此川は白川より出るなり。左に、智恩院、祇園、清水へ行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 白川橋は地下鉄東西線の東山駅に近い。智恩院は青蓮院門跡の南にある。祇園は八坂神社でその南西にある。清水寺はそのさらに南の方になる。

 「三条の大橋、是より京へ入なり。此川は、賀茂川の下なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 そして東海道の終点、三条大橋に到着する。賀茂川に架かる。

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