それでは「東路記」の続き。
「もと番馬は、今の番馬の宿の西にあり。湖のはたに米原と云所有。大津、貝津、塩津、所々より船のつく湊なり。大津より米原まで、舟路十六里有。米原より今の番馬に通る道あり。此故に、もと番馬の町を、今の番馬にうつして立し也。米原へ一里あり。米原より鳥居本へ、一里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)
米原へ行道は前にも述べた九里半街道のことであろう。琵琶湖と伊勢湾を結ぶ産業道路だった。
番馬は今の番場で、中央自動車道西宮線が通っている。この中央自動車道西宮線の小牧西宮間が昔は名神高速道路と呼ばれていて、今もその呼び名が通称として用いられている。だから、この辺りは名神高速になる。
これだと、高井戸大月間は何なのかということにもなるが、ここは西宮線が付かない単なる中央自動車道で、河口湖が終点になる。
この番場宿のルートは古代東山道から受け継がれている。ウィキペディアには、
「飛鳥時代に「東山道」と呼ばれた頃以来の宿場。江戸時代の慶長16年(1611年)、番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点となった。」
とある。番場宿は特に米原から移ったということではないようだ。
琵琶湖は水運が発達していて、丸太船という丸太を二つわりにしたおも木が船腹に取りつけてある和船が用いられていた。『談林十百韻』の「郭公(来)」の巻七十句目に、
から橋の松がね枕昼ね坊
朽たる木をもえる丸太船 正友
の句がある。丸太船は丸舟、丸子船とも呼ばれていた。元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、
花さくを旅すく人もなかりけり
舟ならべたる松本の春
の句もある。ここでいう「松本」は膳所松本で、京阪石山坂線石場駅の辺りに松本という地名が残っている。大津港からそう遠くない。みんな荷物の積み下ろしで忙しくて花見どころではなかったか。
米原というと筑摩神社の筑摩祭も有名だった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」
とある。
君が代や筑摩祭も鍋一ツ 越人
は『猿蓑』に収録されている。『春の日』の「蛙のみ」の巻三十一句目にも、
鳥羽の湊のおどり笑ひに
あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水
の句がある。
「磨針嶺は、番馬と鳥居本の宿の間にあり。湖水、眼下に見えて好景なり。竹生嶋は是よりいぬいの方に見ゆる。嶋のまはり、一里有。めぐりはみな、屏風を立たるごとくなる岩なり。神社有。僧坊十坊有。在家はなし。
凡、湖の中に三の嶋あり。竹生嶋は尤北にあり。南に奥の嶋と大嶋あり。民家多し。竹嶋あり。小嶋なり。
又、岡山とて、武者の宿のいぬいの方に、湖の中にさし出たる山あり。是又、嶋のごとし。是、名所也。少、地につづけり。磨針嶺の下に入海あり。其西南に民家あり。磯と云。是より沢山の方へも行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)
番場宿と鳥居本宿の間に摺針峠がある。番場側から行くと視界が開けた所で琵琶湖が見渡せることで、かつては有名だったようだ。峠には神明宮がある。今の道は切通になっているが、昔はここを通ったのだろう。
竹生島は琵琶湖の北の方にあるが、この峠道の角度だと正面になる。竹生島には、今も都久夫須麻神社(竹生島神社)があり、宝厳寺がある。
「南に奥の嶋」というのは「沖島」のことであろう。今でも漁港もあれば小学校もある大きな島で、民家も多い。
「竹島」は今は多景島という字を当てている。霊夢山見塔寺がある。
「岡山」は近江八幡にある水茎岡山城跡で、今は回りが田んぼになっているが、かつては湖に浮ぶような城があったという。ウィキペディアに、
「南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。」
とあり、また、
「築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。」
とある。
「磨針嶺の下に入海」は今は田んぼになっている滋賀県米原市入江という地域で、かつての入江の輪郭が水路となって残っていて、地図上で見ることができる。
湖側に集落があり、滋賀県米原市磯という地名が残っている。
岡山は水茎の岡として和歌に詠まれ、歌枕になっている。
水茎の岡のやかたに妹とあれと
寝ての朝けの霜の降りはも
よみ人しらず(古今集)
水茎の岡の葛葉も色づきて
けさうら悲し秋の初風
顕昭(千載集)
などがある。
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