2022年7月5日火曜日

 この世界の答えなんて誰も知らないわけだし、本当のことなんて誰にも分らない。それでも政治というのは何らかの決断を下さなくてはならない。
 だから「こんな俺が国の大事なことを決めちゃって本当に良いのだろうか」なんて思う必要はない。どんな偉い人だってまともな決断などできないんだから、あんたに助けを求めているんだ。そう思えば投票を躊躇する必要なんかない。
 間違ったことを信じて独裁政治をしようとしている奴を止めるのが、選挙の役割だ。この世界に正解はない。みんな間違っている。その点では政治家も有権者も五十歩百歩なんだ。だからみんな平等に一票なんだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「此辺、四十九院と云所あり。此辺、ゑち川などの東に、犬上山、鳥籠山、さや川あり。道ゆきびりに尋て見るべし。皆、名所也。〇高宮の西の大山を、和田山と云。其南の山を、荒神山と云。其南なる長き山を、いば山と云。其南は観音寺山なり。其南は箕作山也。是皆、近江の国なかにある山なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 高宮と愛知川の間の滋賀県犬上郡豊郷町に四十九院という地名が残っている。
 四十九院はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四十九院」の解説」に、

 「① 彌勒菩薩の居所、兜率天(とそつてん)の内院にある四九の宮殿。
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「金(かね)の御嶽は四十九院の地なり、媼(をうな)は百日千日は見しかど得領(し)り給はず」
  ② 行基が畿内に建てたという四九の寺院。
  ※顕戒論(820)上「一向大乗寺此間亦有、謂レ如二行基僧正四十九院一」
  ③ 平安時代、ひとつの寺院の境内に、①に模して設けた堂宇。
  ④ 鎌倉以後、墳墓の前面に六基、左右に各一四基、後面に一五基、合わせて四九基の塔婆を建てたもの。」

とある。②の寺院の一つがここにあったのか。
 鳥籠山(とこのやま)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥籠山・床山」の解説」に、

 「滋賀県彦根市にある正法寺山の古名。不知哉(いさや)川(芹川)の北岸にある。一説に大堀山のこととも。
  ※書紀(720)天武元年七月(北野本南北朝期訓)「近江の将秦友足(はたのともたる)を鳥籠山(トコノヤマ)に討ちて斬りつ」

とある。
 正法寺山は芹川の北ということになると彦根になる。旧中山道が芹川を渡る所の東側に鞍掛山があり、西側に大堀山がある。どっちも低い山だ。
 古代東山道には鳥籠駅があるが、それもこの辺りか。
 犬上山は犬上川の方なのだろう。どの山なのかよくわからない。さや川は不知哉(いさや)川で、今の芹川になる。
 荒神山(こうじんやま)は大分湖に近い方になり、荒神山城跡がある。和田山はそれより愛知川を遡った中山道に近い所にある。位置的には荒神山の方が北になる。和田山と観音寺山の間にある「いば山」は石馬寺の後にある伊庭山(いばやま)のことであろう。その南に今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている観音寺山があり、旧中山道を隔てた向こうに箕作山(みつくりやま)がある。

 「愛智川の宿の西にある川を、愛智川と云。俊頼の歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 俊頼の歌は、

 えちかはに岩越す棹のとりもあえず
     下ろす筏のいちはやの夜や
              源俊頼(夫木抄)

の歌であろう。『散木奇歌集』には「落とす筏の」とある。

 「観音寺山は、愛智川と武者の宿の間にあり。山の南の方の麓を通る。山上に観音寺堂有。三十三所の順礼観音也。僧坊、九あり。観音堂より上に、佐々木氏の代々の城あとあり。城の大手は、南方にあり。観音寺山のむかへ五六町ばかりに、箕作の城あと有。最高き所也。是は佐々木義秀の一族、佐々木承禎が居城なり。観音寺山とひとしき高山なり。建部明神は、箕作山の東の麓にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28~29)

 観音寺山は今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている。南東に箕作山(みつくりやま)があり、旧中山道はこの二つの山の間を通る。
 「武者の宿」は武佐宿で、近江八幡に近く、近江鉄道万葉あかね線の武佐駅がある。
 今の繖山には繖山観音正寺がある。ウィキペディアには、

 「実際の創建時期については不明であるが、遅くとも11世紀の平安時代には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏に攻められた六波羅探題北方北条仲時が後伏見上皇・花園上皇および光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に、両院(上皇)や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある。」

とある。また、佐々木氏の城について、

 「観音正寺が位置する繖山には、鎌倉時代以来近江国南半部を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城があったが、六角高頼が観音寺城を居城として以来、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えた。寺伝によると最盛期には72坊3院の子院を数えたとされる。」

とある。

 「江戸時代に入り、西国三十三所の霊場として栄えた観音正寺は、天保12年(1841年)には塔頭として、定円坊、本乗坊、松林坊、宝泉坊、観泉坊、松寿坊、徳万坊、光林坊、教林坊の10か坊が存在していたが、明治時代に入ると教林坊を残して廃絶した。」

とあり、ここにも廃仏毀釈の影響があった。
 反対側の箕作城はウィキペディアに、

 「箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館(日本の城)。」

とある。
 繖山は432m、箕作山は373m、高さはそれほど違わない。
 建部明神は今の地図を見てもそれらしきものはない。近江国一之宮の建部大社は大津にある。

 「老曾の森は、観音寺山のふもと、清水と云所の少西にあり。海道のはた也。老曾村に町あり。此あたりに、すくもと云物あり。地をふかくほりて取る。黒土のごとく、柴の葉のくちたるに似たり。其中に木の枝の有もあり。火を付れば、よくもゆる。火をたもつ。里人、是を掘て薪とし、うる。
 里人は是を、『むかしの栗の木の葉なり』といふ。いぶかしき物なり。昔、此辺に大なる栗の木有しと云。続酉陽雑俎に、『東海に大栗あり』と云へり。『若。此栗の事にや』と云人あり。いぶかし。(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 老蘇森(おいそのもり)は観音寺山と箕作山の間の谷を出た辺りにあり、国道八号線と新幹線の線路が横切っている。旧中山道はそれと交差するように南に向かい、老蘇森を右に見ることになる。
 清水というのは箕作山の北側に清水山があり、その麓辺りをそう呼んでいたか。古代東山道にも清水駅がある。
 「すくも」は籾殻を意味する場合もあるが、ここでは別のもので、腐葉土の一種のようだ。藍染の過程で、藍の葉を発酵させたものも「すくも」というが、それとも違うようだ。よく燃えるというから泥炭と言った方が良いのだろう。
 ウィキペディアの「泥炭」の所に、

 「主に気温の低い涼しい気候の沼地で、植物の遺骸が十分分解されずに堆積して、濃縮されただけの状態で形成される。泥炭が蓄積した湿地帯を泥炭地と呼び、日本では主に北海道地方を中心に北日本に多く分布する。泥炭は寒暖の差に関係なく形成され、熱帯地域では木質遺骸によって(トロピカルピートと呼ばれている)形成される場合も少なくない。いずれも植物遺骸などの有機物の堆積する速度が、堆積した場所にいる微生物などが有機物を分解する速度を上回った時に泥炭が形成される。泥炭は石炭の成長過程の最初の段階にあると考えられている。また、炭化が十分に進んでいないせいか植物の遺骸がそのまま残っていることが多いので、石炭と違って長い年月をかけておらず、蓄積してから数年程度しか経っていないことを確認できる。総じて、泥炭は炭化の過程がかなり短く、少ない時間でできる為、単純な条件下でできる。」

とあり、必ずしも寒冷地でなくても形成されることがあり、「其中に木の枝の有もあり」という記述とも一致する。老蘇森が湿地にあったため、泥炭が形成されやすい環境にあったのだろう。
 この「すくも」と大栗の伝説については南方熊楠も『南方閑話』に記している。ネット上で読むことができる。そこには、

 「『先代旧事本紀』には、「景行天皇四年の春二月の甲寅に、天皇、箕野《みの》路に幸《みゆき》す。淡海を経《す》ぐるに、一の枯木より殖《お》いし梢は空《くう》を穿《ぬ》きて空《そら》に入る。国老に問うに、いわく、神代の栗の木なり。この木の栄ゆる時は、枝は嶽に並ぶ、ゆえに並枝山《ひえのやま》という。また並びて高峰に聯《つら》なる、故に並聯山《ひらのやま》という。毎年葉落ちて土となる。土中ことごとく栗の葉なり、云々」とあるが、これは有名の偽書で」

とあり、これが元になっているのだろう。『先代旧事本紀』はウィキペディアに、

 「蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。」

とある。
 また、『和漢三才図会』が、燃土《すくも》がこの栗の木の葉だったという説を、燃土が越後の寺泊・柿崎でも産出するということでもって論破していることも記している。
 老蘇の森は歌枕で、

 東路思ひ出にせむ郭公
     老蘇の森の夜半の一声
              大江公資(後拾遺集)
 かはりゆく鏡の影を見るたびに
     老蘇の森の嘆きをぞする
              源師賢(金葉集)

などの歌に詠まれている。

 「安土の城あとは、観音寺山の北にあり。佐々木大明神の社は、観音寺山のいぬゐの方にあり。佐々木氏、代々尊敬の神也。延喜式神名帳に、『近江国蒲生郡沙々貴神社』とあり。仁徳天皇の御社也。ささきは仁徳の御名也。安土も、佐々木の社も、本かい道より見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 織田信長の安土城の跡は観音寺山の北西にあり、沙沙貴神社は西にある。記述は四十五度ずれている。JRの安土駅に近い。旧中山道から見ると観音寺山に遮られる形になる。
 沙沙貴神社はウィキペディアに、

 「神代に少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったという。このことからこの地は「ササキ」と呼ばれるようになり、その地に少彦名神を祀ったことが当社の始まりであるという。古代に沙沙貴山君が大彦命を合わせて祀り、景行天皇が志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。」

とある。今日での祭神の中に仁徳天皇が含まれている。仁徳天皇は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)とも呼ばれている。江戸時代は豆のササゲよりも仁徳天皇の宮の方で通っていたのだろう。

 「鏡山は、武者と守山との間にあり。西のかたよりむかへば、鏡を立たるごとくなれば鏡山といへるか。名所也。山下に鏡の宿有。人家多し。馬次にあらざれども、馬多く、はたご屋多し。武者より鏡まで一里半。鏡より守山へ二里有。武者より八幡山へ五十町有。武者と守山の間、横関と云所に川有。船渡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 武者は武佐で鏡山(384m)の先、JRで言えば篠原駅の南側にある。国道8号線には道の駅竜王かがみの里がある。旧中山道もここを通っていた。「鏡を立たるごとくなれば」というのはよくわからない。今と地形が違っていたか。
 近江平野はかつてはたくさんの沼があった。彦根の北の入江もそうだし、安土城の北西には今は西の湖が名残をとどめているが、かつては大中湖、小中湖という大きな湖だった。旧中山道が老蘇の森の南へと方向を変えるのもそのためだったのかもしれない。
 あるいは鏡山の西にある西池もかつてはもっと大きくて、そこに映る鏡山が鏡を立てたように見えたのかもしれない。
 横関は今の竜王町だという。今は日野川と善光寺川があるが、かつては船を用いる程の大きな川だったか。日野川の渡し跡がある。西川池・鏡新池がその名残なのかもしれない。

 「野洲は、鏡と守山との間なり。鏡の宿の西にあり。此町の左右のうらにて、布を多くさらす。やす川は町の西のはしにあり。野須川、河原、共に名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 鏡山を越えると野洲になる。野洲晒(やすざらし)が作られていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野洲晒」の解説」に、

 「〘名〙 滋賀県野洲市から産出する上質の麻のさらし布。近江晒(おうみざらし)。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 野洲の河原は、

 天の川やすの河原に舟うけて
     秋風吹くと妹につけこせ
              山部赤人(続古今集)

の歌がある。神話の天の安河原に七夕のイメージを重ねている。元禄三年の「種芋や」の巻九句目の、

   小僧のくせに口ごたへする
 やすやすと矢洲の河原のかち渉り 芭蕉

も、前句の小僧をスサノオに見立てている。海原の支配を命じたのに黄泉の国へ行くと口答えし、姉の天照大神に会おうとやってきて天の安河原の宇気比(誓約)を行う。このあとさんざん悪さをして、天岩戸になる。

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