2020年3月8日日曜日

 今日は一日雨でまだまだ肌寒い日が続く。
 スーパーは雨のせいか人は少なかったが、米やパスタは普通に店頭に並んでいた。マスコミが大袈裟に煽っているだけなのだろう。とにかく日本では大きな混乱は起きていない。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 五十九句目。

   采女の土器つづけ三盃
 さそひ出水の月みる猿沢に    宗因

 猿沢の池は奈良興福寺の前にある。興福寺の五重塔が水に映る風景はよく知られている。
 前句の「采女の土器」で時代設定は古代なので、平城京の猿沢の池を出し、そこで月見の宴とする。猿沢の池は天平二十一年(七四九年)に造られたという。
 猿沢の池のほとりには采女神社がある。ウィキペディアによると、

 「奈良時代、天皇の寵愛が衰えたことを嘆いた天御門の女官(采女)が猿沢池に入水し(采女伝説)、この霊を慰めるために建立されたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜にして社殿が西を向き、池に背を向けたという。
 旧暦8月15日の例祭は采女祭と呼ばれ、この采女の霊を慰めるために執り行われる。」

だという。
 水の月に猿沢の「猿」の字は、水に映る月を取ろうとする猿の故事も思い起こさせる。叶わぬことのない願いは多くの人の共感を誘い、画題にもなっている。日光東照宮神神厩舎の三猿は有名だが、池を覗き込む猿と手を伸ばす猿の像もある。
 古代の大宮人も猿沢の池に酒を酌み交わし、叶わぬ夢を語り合っていたのだろう。
 六十句目。

   さそひ出水の月みる猿沢に
 おもひやらるる明州の秋     宗因

 明州は中国の寧波(ニンポー)の古名だという。上海・杭州・紹興(昔の会稽)に近い。
 阿倍仲麻呂が帰国をしようとして明州を訪れ、そこで詠んだ歌はあまりにも有名だ。

   もろこしにて月を見てよみける
 あまの原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
             阿倍仲麻呂(古今集)

これには、

 「この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。」

という左注がある。
 三笠の山を望む猿沢の池では、明州で同じ月を見ていた阿倍仲麻呂のことが思いやられる。
 六十一句目。

   おもひやらるる明州の秋
 牛飼のかいなくいきて露涙    宗因

 中村注は謡曲『唐船』を引いている。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「謡曲。四番目物。外山吉広(とびよしひろ)作という。捕虜の唐人祖慶官人を慕い、二人の子供が唐から迎えに来る。日本でもうけた二人の子供が帰国を引き留め、官人は困って死のうとするが、日本の子供も同行を許される。」

とある。
 明州に棲んでいた祖慶官人が捕虜となって日本の箱崎で牛飼いとなって十三年の時を過ごす。
 六十二句目。

   牛飼のかいなくいきて露涙
 いつか乗べき塞翁が馬     宗因

 「塞翁が馬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。 〔「淮南子人間訓」から。昔、塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが、名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際に兵役をまぬがれて無事であったという話から〕」

とある。
 ただ、いつか逃げた馬が駿馬を率いて帰ってくる事を期待してしまうと、それこそ「株を守る」になってしまう。
 六十三句目。

   いつか乗べき塞翁が馬
 御旦那にざうり取より仕来て  宗因

 これは豊臣の秀吉。わかりやすい。
 六十四句目。

   御旦那にざうり取より仕来て
 菜つみ水汲薪わる寺      宗因

 中村注は「拾遺集」の、

   大僧正行基よみ給ひける
 法華経を我がえしことは薪こり
     菜つみ水くみつかへてぞえし

を引用し、これに基ネタがあったことも記している。『法華経』の「提婆達多品」に「即随仙人供給所須。採果汲水拾薪設食。」という一節があるという。
 行基は行基菩薩とも呼ばれ、ウィキペディアによれば、

 「道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。」

だという。こういう立派な人にも下積み時代はあった。

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