2020年3月30日月曜日

 また日常が戻ってきた。ただ、年度末の月曜日にしては静かな方か。
 今日はあちこちでトイレットペーパーが積んであるのを見た。もうオワコンなのかな。そういえばカップ焼きそばが山のように積んであるコンビにもあった。
 コロナが蔓延するよりもずっと前から、ユーチューバーがたくさんいたり、宅録系のミュージシャンが活躍していたりしたが、コロナを一つの契機に、これからの芸術は自宅から自宅へというのがキーワードになるのかもしれない。「自宅から自宅へ」ではダサいから、何かかっこいい英語の言い回しがあればいいんだが。
 従来の大勢の人を一箇所に集める劇場型の芸術ではなく、ネットを媒介とした新しい芸術の波は既に起きている。コロナはそれを加速させ、芸術そのものを変えてゆく可能性を持っている。
 かつての黒死病が中世を終らせルネッサンスへの扉を開いたように、コロナも文明を新たな段階へと導くのかもしれない。
 人が死んでゆくのはどうしようもなく悲しいけど、何かやはりポジティブに考えたいね。

   見れば真っ赤に燃え上がる空
 台風の尋常でない夕月夜

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 二裏。
 三十七句目。
   留守におかるる身こそつらけれ
 猿楽の笛と太鼓を聞計       兼載

 室町時代では能と狂言をひっくるめて「猿楽」と言った。庶民から貴族に至るまで国民的な娯楽だった。
 見に行きたいのに自宅で留守番を命ぜられ、遠い笛や太鼓の音だけを聞くのは寂しい。
 三十八句目。

   猿楽の笛と太鼓を聞計
 うたへどさらに声ぞしいける    兼載

 「しふ」はこの場合は「癈ふ」で、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「目や耳などの感覚がまひする。身体の器官がだめになる。老いぼれる。」

とある。
 声が衰えて歌が聞こえず笛と太鼓だけが聞こえる。なんだかボーカルの弱いロックバンドみたいだ。
 三十九句目。

   うたへどさらに声ぞしいける
 庭鳥の尾もなき程に年ふりて    兼載

 鶏も年取れば声が衰える。
 四十句目。

   庭鳥の尾もなき程に年ふりて
 尻のまはりはみられざりけり    兼載

 鶏には立派な尾があるが、それがないとなりゃ確かにみすぼらしい。見れたもんではない。
 四十一句目。

   尻のまはりはみられざりけり
 小児達窓より顔をさし出し     兼載

 「小児達」は「ちごら」か。
 窓から顔を出しているのだから顔だけで、肝心の尻は見えない。ホモネタ。
 四十二句目。

   小児達窓より顔をさし出し
 徒然そうにも文をこそよめ     兼載

 字数からしてこの場合は「つれづれ」ではなく「とぜん」か。「退屈そうに」という意味だが、この場合は相手がいないならというニュアンスか。

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