今日は一日雨だったが、夜になって晴れた。如月の望月が見える。
今日も日本は平和で、ひょっとしたらこのままCOVID-19に勝てるのではないかと思いたいところだが、勝てると思ったときが一番危ないと『りゅうおうのおしごと』にもあった。大事なことはみんなラノベに学んでいる。
今のところ死者が少ないのは、病院にまだ余裕があって、集中治療室で十分な治療が出来ているからで、感染が拡大してゆけば、やがて医者も集中治療室も不足して、治療できない人が出てくる。そうなれば、一気に死者の数が増えることになる。
今はまだ嵐の前の静けさなのかもしれない。
それでは「口まねや」の巻の続き。
六十九句目。
ひとつ塩干やむはら住吉
蛤もふんでは惜む花の浪 宗因
「花の浪」は『応安新式』に、
「花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之)」
とあり、「花の浪」の場合は植物、水辺両方を嫌う。
「花の浪」は、
桜花散ぬる風の名残には
水なき空に浪ぞたちける
紀貫之「古今集」
により、風に揺れる桜を浪に、飛び散る花びらを波しぶきに喩えたもので、植物の木類として去り嫌いの規則に従うのは勿論のこと、水辺としてもその規則に従う。
貞徳の『俳諧御傘』には、
「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白波のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」
とある。
「浪の花」の方は、『応安新式』に「浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之)」とある。
「ふんでは惜む」は中村注に、『和漢朗詠集』の白楽天の詩句、
背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春(燭を背けては共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春)
を引用している。
住吉の潮干狩りは春のもので、潮干狩りに来た人は花ならぬ蛤を踏んで行く春を惜しむ。
七十句目。
蛤もふんでは惜む花の浪
さつとかざしの篭の山吹 宗因
中村注は、『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りを引用している。
「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
やまぶきを上にさして書付けて侍りける
やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
ゐでのわたりの物と見るかな
家綱
返し
心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
はまくりかへしあはれとぞ思ふ
俊頼」
蛤を入れた籠に山吹の枝を添えて、花の浪の散るのを惜しむ。
七十一句目。
さつとかざしの篭の山吹
乗物に暮春の風や送るらん 宗因
前句の「篭」を乗物の駕籠のこととする。駕籠に山吹を添えて、暮春の風に送られて旅立つ。
七十二句目。
乗物に暮春の風や送るらん
娌子のかへる里はるかなれ 宗因
「娌子」は「よめご」と読む。
暮春の風は通常の里帰りにしては悲しげだ。あるいは離婚で実家に帰る情景か。
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