今日は明け方までは雨だったが朝になって雪に変わった。昼過ぎまで降って、ほんの少し積もり雪景色になった。
子供の頃のおぼろげな記憶では四月に雪が降ったこともあった。多分1969年4月17日の雪だろう。このときの雪は高田渡が「春まっさい中」という歌で唄っている。
一日お籠りするにはちょうどいい雪だった。街も静かだっただろう。明日はまたあの人混みと渋滞が戻って来るのかな。
コロナ退散祈願俳諧(仮)、六句目。
ドアに立つおやじ動こうともしない
見れば真っ赤に燃え上がる空
それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。
二十九句目。
鋤持人はおほはらの里
秋は只よろづの物をくばはれて 兼載
旧暦八月一日の八朔は室町時代に既に公式行事になっていたという。大原の里でも鋤が配られたたか。
三十句目。
秋は只よろづの物をくばはれて
さるのかしらは紅葉しにけり 兼載
秋から紅葉の景色に逃げるが、そこは俳諧なので猿の顔を紅葉に喩える。
三十一句目。
さるのかしらは紅葉しにけり
露時雨ひつじの時や晴ぬ覧 兼載
時雨は冬だが「露時雨」だと秋になる。未の刻は午後二時頃。
なぜ未かというと、前句の「さるのかしら」を申の刻の頭に取り成しているからだ。
未の刻までは晴れていたのに、申の刻には時雨となって紅葉が雨露に色鮮やかに染められてゆく。
なお、会津の「さんさ時雨」はこれより後の時代、伊達政宗の頃に始まる。
三十二句目。
露時雨ひつじの時や晴ぬ覧
いそぐあゆみに捨るみのかさ 兼載
未の刻までは晴れていたが、突然の時雨にどこかの家に駆け込み、やれやれと蓑笠を脱ぐ。
三十三句目。
いそぐあゆみに捨るみのかさ
鬼だにも仏をみれば逃ぞする 兼載
大江山の酒呑童子は元々比叡山に住んでいたが、最澄が延暦寺を建てたことで逃げ出して、大江山に移り住んだという。
三十四句目。
鬼だにも仏をみれば逃ぞする
おがみてとをれ堂寺の前 兼載
「堂寺(どうてら)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 堂や寺。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とあり、特にどこの寺というわけではないようだ。鬼にあいたくなければ、堂寺で拝みなさい、という釈教の句になる。
ちなみに会津のさざえ堂は寛政八年(一七九六年)の建立で、三百年くらい後になる。
三十五句目。
おがみてとをれ堂寺の前
旅の道さはり有なと祈念して 兼載
その昔、和歌で名高い藤中将実方が陸奥の守に左遷になったとき、現在の宮城県名取市の笠島で道祖神の社を無視して通過しようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて転がり落ちて死んだという。
西行は、
朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
枯野のすすき形見にぞ見る
西行法師
と詠み、後に芭蕉も、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道 芭蕉
とこの藤中将実方を追悼している。
堂寺の前では必ず拝んで通るようにしよう。
三十六句目。
旅の道さはり有なと祈念して
留守におかるる身こそつらけれ 兼載
旅人からそれを見送る人へと転じる。
『伊勢物語』二十三段筒井筒の、
風吹けば沖つ白浪龍田山
夜半にや君がひとり越ゆらむ
の歌も思い浮かぶ。
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