2018年9月2日日曜日

 今日は昨日にも増して涼しかった。
 サッカーの男子は負けたが、ウイイレでは金メダル。
 では『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行のふたつにくらまさると云は、予きく、かつて趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、ふるきの句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさたなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)

 この湖南の作者が誰なのかはよくわからない。
 「ふるき句をせん」というのは、『去来抄』「修行教」に「先師遷化の時、正秀曰、是より定て変風あらん。その風好みなし。只不易の句をたのしまん。」とあるから正秀のことか。
 ただ、正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加し、

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀
 初雪をどろにこねたる都かな    同

の句がある。
 『二葉集』にはそのほか尚白、智月、乙州など湖南の蕉門が惟然の超軽みの俳諧に合流している。
 この集には他にもいろいろな人が参加している。

 秋の実のおのが酢をしる膾かな   洒堂
 あたたかな泥もどろどろ(虫喰)なれよ 諷竹
 松風の四十過てもさはがしい    鬼貫

 「歌に十体あり、定家・西行はじめより詠んとし給ふことを聞かず。詠みおはつてのち、十体のすがたはあらはる。ときに判者の眼あつて、一々体をわかつ。何体の歌よまんといへる歌道は、かた腹いたく侍らん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36~37)

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「歌論用語。和歌の 十の風体 (ふうてい。歌風に基づく一首としての姿) の総称。また,十の風体を例歌によって示した歌学書をもさす。歌を 10体に分けることは早く奈良時代の『歌経標式』にみられるが,これは歌体,発想,表現技巧などさまざまな観点から分けたもので,分類の基準は一貫していない。風体のうえから分けたものとしては平安時代中期に壬生忠岑 (みぶのただみね) の『忠岑十体』 (『和歌体十種』) があり,これには中国詩学の影響が認められる。平安後期の『奥義抄』には『道済十体』 (佚書) がみえる。鎌倉時代の藤原定家の『定家十体』は最も知られ,これは「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」の 十を設け,それぞれ例歌を掲げている。定家は『毎月抄』でも十体に言及し,「幽玄様」「事可然様」「麗様」「有心体」の四体が基本であり,なかでも「有心体」が最も中心であることを説いている。しかし『定家十体』は偽書とする説もある。『良経詩十体』というものもあったらしく,のちには連歌論,能楽論でも唱えられた。」

とある。西行・定家より前から『忠岑十体』があったようだ。歌合などが盛んに行われ、判定の際に参考とされることがあったなら、実際にはそれに合わせて歌を詠むこともあったと思われる。
 いろいろな体の歌を詠み分けられるというのは歌人にとっての一つの技術だったのであろう。ただ和歌は言葉が雅語に限られていたため、俗語を認める俳諧と違い、江戸時代の流行の風俗を詠むことができず、流行体というのは成立しなかった。
 俳諧の場合、不易体と流行体に分けるにせよ、俳諧自体が江戸時代の流行であり、厳密に不易を求めたなら連歌になってしまう。不易に行き着いて荷兮のように連歌に転じた例はある。
 もっとも。その連歌も鎌倉時代には流行だった。

 「翁在世のとき、予終に流行・不易をわけてあんじたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 許六が芭蕉に入門したのは元禄五年の八月九日とされている。十月三日には許六の滞在している彦根藩邸で「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行が行われている。許六の脇は、

   今日ばかり人も年寄れ初時雨
 野は仕付けたる麦の新土     許六

だった。
 このころから『炭俵』の新風が試されてゆく。十月二十日には「ゑびす講」の巻の興行が行われる。芭蕉もこの頃には猿蓑調からの脱却を考えていて、不易流行説も過去のものになっていたのだろう。
 芭蕉は元禄七年閏五月に京に上るものの、この新風を広めるのは時間が不足していたのだろう。彦根は新風を受け入れたが、京都や湖南は猿蓑調との折衷になって続猿蓑の風になったのではないかと思う。
 その湖南の蕉門が元禄十五年ごろになると惟然の風に靡いていって、孤立した去来があの『去来抄』を書いたのかもしれない。

 「句いでて師に呈す。よしはよし、あしきはあしきときはむる。よしと申さるる句、かつて一つの品をこころにかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらはるるなり。滅後の今日にいたつて猶しか也。かつて流行・不易を貴しとせず。よき句をするをもつて、上手とも名人とも申まずきや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 芭蕉の元禄五年十二月八日の許六宛書簡には、

 「且又四吟之俳諧もよほどおもしろく候。前夕、嵐蘭・珍夕吟じ見申候。」と、

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂
   綿舘双ぶ冬むきの里     許六
 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉
   春は其ままななくさも立つ  嵐蘭

の歌仙を見たことを記している。

 芭蕉の元禄五年十二月十五日の許六宛書簡には、

 「多賀の詔訴人は珍重に存候。」

と、

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

の句を評価している。句の意味は今となってはよくわからないが、湖東の多賀大社とすぐ近くにある胡宮神社との間でしばしば訴訟があり、今年も決着が付かずに年を越すというあたりに「しほり」があったということか。
 ネットで検索すると「胡宮神社文書398点-多賀町役場」というページがあり、そこには、

 「胡宮神社文書は、敏満寺が戦国時代に兵火に罹って廃絶したあと、その坊のひとつである福寿院、つまり胡宮神社の別当に、伝承していたものです。多賀大社と胡宮神社の位置づけをめぐる訴訟に関する文書がまとまって保管されています。ここには近世の胡宮神社別当福寿院が、敏満寺以来の由緒を守るため、懸命に多賀大社に抗い続けたようすが記されています。」

とある。
 同じ書簡に、「先日煤掃はぜゞ引付に入遣候」という文字もある。これは、

 煤掃や蜜柑の皮のやり所     許六

の句を評価し、膳所の歳旦帖の引付に掲載するとしている。
 年末恒例の煤払いの時に、せっかく家を綺麗にしたのに、掃除の時に集まった人たちが食べた蜜柑の皮が部屋に残ってたりするという、いわゆるあるあるネタだったか。
 一方で、芭蕉の元禄五年十月二十五日の許六宛書簡には、

 「一、池のかも、等類がましき事御座候間、御用捨可被成候。残念。」

とあり、「池のかも」の句に似たような句があることを指摘している。没になったせいか、この句は残ってないようだ。
 こういう芭蕉評には一々理屈はない。「よしはよし、あしきはあしきときはむる。」はこういうことだったのだろう。

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