2018年9月6日木曜日

 台風が去ったと思ったら、今度は北海道の地震で天は無慈悲だ。
 天は人間の思いとはまったく無関係に独自の原理で動き、その妙は人智では計り難い。故に「神」という。
 我々にできるのは、ただ謙虚に事実を受け入れ、いたずらに我を張らずに(我ん張らずに)、ただできることを積み重ねるだけだ。
 ただ、災害より恐ろしいのは人が人を信じられなくなることだ。
 芭蕉亡き後の俳諧の衰退は、外的には江戸に歌舞伎が、上方には浄瑠璃が台頭し、娯楽が多様化したというのも一因だろう。
 ただ、こうした流行に対して、浄瑠璃などもってのほか、なんて狭い感覚で対応を怠った側にも責任はあっただろう。
 社会主義国家では理論に反して生産性が落ち込むと、アメリカの陰謀を疑ったり、誰か裏切り者がいて革命の妨害をしているだの疑心暗鬼になり、結局は密告・誣告が横行し、粛清の嵐が吹き荒れ自滅した所もあった。
 許六の対応もそれに近い。芭蕉の教えが正しいのだから俳諧が衰退するはずはない。衰退するのは路通のような泥棒が連衆に加わったり、惟然のような乞食坊主を野放しにしているからだなんて、とんでもない論理に走ってしまった。
 それに去来がどう答えたのか、これから見てゆくことにしよう。去来は「贈落柿舎去来書」に答える形で「答許子問難弁」を書くことになる。

 「湖東の許六雅兄、予其角に贈る文を読て、疑難を書、頃日予に与へらる。信(まこと)に風騒の人なり。其論高し。
 予が不才当ルべからず。然共微意を述て是を弁ず。是非のごときは阿兄

正したまへ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 「許六雅兄」とあるが、去来は一六五一年生まれ、許六は一六五六年生まれで、去来の方が年上になる。
 「風騒」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 〔「風」は「詩経」の国風、「騒」は「楚辞」の離騒の意。ともに詩文の模範とされたことから〕詩歌をつくること。また、自然や詩歌に親しむ風流。 「此の関は三関の一にして、-の人、心をとどむ/奥の細道」

とある。
 似たようなものに「騒人」という言葉もある。『去来抄』「同門評」に、「凡秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有あり。」とある。
 「予が不才当ルべからず」と一応謙遜してはいるものの、言うべきことは言わなくてはならない。「微意」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 ささやかな志。寸志。自分の意志・気持ちを謙遜(けんそん)していう語。「微意を表す」

とある。

 「来書曰、千歳不易・一時流行の二ッをもつて、晋子が本性を論ぜらるる、兼て其角ガ器をくはしく知りたまはざる故也。生得物に苦める志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく、返て辞を色どり、若葉集の序とす。是はづかしめをしらぬゆへ也。
 一、去来曰、此難、阿兄の言しかり。予亦おもふ処ありて是を贈る。此

を弁じて俳道に益なし。暫筆をさしおくのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 其角の性格から反論しなかったという点では許六の説を「しかり」とする。知っててあえてあの手紙を送ったのだが、俳道に益がなかったので此れについては語らない、とする。まあ、体よく逃げた形だ。

 「来書曰、然りといへ共、予三神を懸て相撲を晋子が方に立ず。又諸門弟の句をあなどらず。
 二、去来曰、阿兄の言信ずべし。予亦是に同じ。文中過分なる物、罪し

たまふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41~42)

 手紙の文章が多少違うのは、今日残っている文章とオリジナルとの間に違いがあったか、よくわからない。許六の言うとおりだといいつつも、「罪したまふ事なかれ」と屈しない態度を取っている。

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