今日は一日雨が降った。
高速道路は至る所渋滞していて、疲れる一日だった。
それでは『俳諧問答』の続き。
「又我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり。此ハただ時に取ての放言なり。
句の秀拙ト成不成ハ賢愚ト時日ニよるといへども、此をおもふ事なしといはんハ、却て誤ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)
まあ、結局は不易の句と流行の句の作り分けはやっていたということか。
「退ておもふに、阿兄の俳に遊び給ふ事久し。必旧染有らん。句案にいたりて、その穢或ハ出来らん。此を掃ヒ、此をのぞきて、新風をおもひ給はずといふ事有べからず。心におもふと、口にいふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53~54)
許六が芭蕉に入門したのは元禄五年だったが、それ以前にも俳に遊んでいた。ウィキペディアには、
「延宝の始め(1670年代前半)に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとし、談林派の俳諧に属していた。元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」
とある。俳歴は去来より長いのかもしれない。
貞門や談林の時代を知っていたなら、去来が言うように、芭蕉と出会い「軽み」の風を学んだときから、古い俳諧のスタイルを一掃しようと頑張ったのかもしれない。
「若阿兄此をおもハずとのたまハバ、阿兄ハ本ト旧染なき人か。有といへども、一度捨て、再びそのけがれの来らざる人か。かくのごとき人も又なしとせず。然レ共、此ハただ賢慮壹人の上にて、衆人と一口にいひがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)
不易と流行に惑うのは、確かに猿蓑調の旧幣だが、そういう許六さんにもそれがないといえるのか、とやや開き直ってきている。
結局みんな新風を起こしたくても、芭蕉のような才能がない。誰かやらないか、誰かやらないかと思っていても、結局誰もやらない、そんなイライラが去来の其角への手紙になり、許六の去来への手紙になっていたのだろう。
そして惟然がそれをやろうとすると、こんどは出る句を打つ。衰退期というのはそういうものか。
どんなジャンルの芸術でも、ひとたび繁栄を極めると、その成功体験が足を引っ張り、結局保存の時代に入ってしまうのだろう。
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