2018年9月17日月曜日

 フィリピンも香港も台風で大変だし、アメリカ東部もハリケーンが来ている。そういえば去年もテキサスの水害があったか。
 天災はまだしょうがないが、今朝の新聞にウイグル自治区の強制収容所のことが載っていた。マスコミはあまり報じないが、随分前から問題になっていたことのようだ。ナチスの悪夢が蘇ってなければいいが。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、只一句の姿に俳諧あらバ、捨つるものハ有まじ。
 十三、去来曰、此論阿兄おもハざるの甚き也。
 宗鑑・貞徳よりこのかた数人の名客、其風いづれか俳諧の姿なしとせん。
 然ども宗因用ひられて貞徳すたり、先師の次韻起て信徳が七百いんおとろふ。
 先師の変風におけるも、ミなし栗生じて次韻かれ、冬の日出てミなし栗落、冬の日ハさるミのにおほはれ、さるミのは炭俵に破られたり。
 その用捨時に有。此を以て先師、一時流行の名をはじめ、用捨時にかかハらざる句有を取て、千歳不易の号を起せり。
 しかれども、共ニ俳諧の姿にもれず。なんぞ此を捨る人なしとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.50~51)

 一句の姿はあっても捨てるべき句があると去来は考える。
 それは宗鑑・貞徳以来、貞室、季吟など、いずれの句も俳諧の姿を具えていた。
 宗因によって談林の流行が巻き起こり、そのあと延宝九年に信徳、春澄らが『七百五十韻』を刊行し、それに芭蕉、其角、才丸、揚水の四人が千句になるようにと二百五十韻を追加したものを『俳諧次韻』として刊行し、それが談林を離れた蕉風の出発点になった。
 そのあと、『虚栗』『冬の日』『猿蓑』『炭俵』と蕉風も変化してきた。
 この蕉風の発展過程で、捨てられて句があったが、捨てられたとしても俳諧の姿がないわけではなかった。それゆえに姿はあっても捨てるべき句があると結論する。
 ここでようやく不易流行説が登場する。つまり、捨てるべきものは一時流行であり、残ったものは千歳不易だとする。
 どんなジャンルの芸術でも、それが進化発展してゆく過程では、たくさんの作品が生み出される中から、良いものは積極的に真似し、つまらないものは忘却されてい行く。だからここで捨て去られるものがあったとしても、それは俳諧の姿はあっても結局そんなに面白い句ではなかったということになる。
 ならば、面白い句であれば、捨て去られることなく残る。許六が言いたかったのはそのことであろう。
 ただ、その捨てる捨てないを誰が判断するかが問題で、選者の独断で決めたのでは俳諧の姿があって十分面白い句が誤って捨てられてしまうことがあるし、本来捨てられるべきつまらない句が拾われてしまうこともある。選者の独断でなく、広く大衆の判断にゆだねることが重要になる。
 だが、頭でっかちの去来さんが果たしてそう考えたかどうか、そこが問題だ。

 「来書曰、不易・流行の二ツにくらまさるると云ハ、予きく、会て趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、不易の句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさた也。
 十四、去来曰、此事さだめて、湖南の人々故有ていふなるべし。
 今愚をかへり見て此をおもふに、その当時の風をねがふ事ハ、平生心にあれバ、趣向・句作と前後を論ずべからず。
 句にのぞむに至てハ、感偶するものハ、趣向おのづから、苦案するものハ、先趣向を案ず。趣向漸(やうやく)いたりて、句づくりをおもふ。
 句ならんとする時、或新古の風出来る。その古風なる物ハ、幾度も掃ひすてて、ただ新風にかなハんとす。新風漸いたりて、句さだまる。しかれば流行をおもふ事ハ、趣向の後、句の前といはんか。是平生の案姿也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.51~52)

 去来が自分自身の句を作る時を振り返るなら、最初に不易の句をしようとか、流行の句をしようとか考えているわけではない。
 先ず最初にあるのは趣向で、テーマが定まってから具体的な句作りに入る。
 具体的に句を作ってゆく過程で、新しそうなものができたり古臭いものができたりする。古臭いものはこの時点で捨てて、新しそうなものだけを残す。これが新風だと確信できたときに句が定まる。流行は趣向の後、句が出来上がる前ということになる。
 前に、去来の句の作り方について触れたが、

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

の場合、「冬ごもり」が趣向になり、この場合芭蕉の病床の前での吟だから病中の冬ごもりであり、そこでいろいろな景を案じた末、「あまりをすする」というのが新しいと判断し、句が完成する。この場合「病中の冬ごもり」の趣向の後に流行を意識し、句を仕上げることになる。
 元禄九年刊の『韻塞』の、

 行かかり客に成けりゑびす講  去来
 行年に畳の跡や尻の形     同
 芳野山又ちる方に花めぐり   同
 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付ける過程で流行が意識されていると思われる。

 応々といへどたたくや雪のかど   去来
 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

の場合も同様、「雪のかど」という趣向から何か新しいものをということで「応々といへどたたくや」が導かれ、「時雨」の趣向から「紅粉の小袖を吹かへし」が新味として導き出されたと思われる。
 この作り方は大喜利に近いかもしれない。与えられた題で以下に面白く作るかが勝負になる。
 おそらく多くの人は逆なのではないかと思う。何か面白いネタを思いついて、それを句に仕上げる段階で、時にはかなり無理矢理季語を放り込んだりしていたのではないかと思う。つまり流行が先にあって、後付けで趣向を練ることがしばしばあったのではないかと思う。
 芭蕉はその両方ができたと思う。いずれにしても仕上げてゆく段階でさび・しほりを隠しこむ技術があったのが凡庸な作者との違いだったと思う。
 たとえば、

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句の場合、推敲課程が辿れるのでそれがよくわかる。
 初案は曾良の『俳諧書留』にある、

 山寺や石にしみつく蝉の聲    芭蕉

で、これだと山寺で聞いた蝉の声というテーマが先ずあって、「石にしみつく」という表現で新味というか面白みを出そうとしたと思われる。この場合の「しみつく」はまだ静寂を意識したものではなく、岩全体が墓石でもある山寺の石には、長年にわたる夥しい数の人々の蝉の声のような儚い命がしみついている、というものだった。
 ここまでだと去来の句の作り方に近い。人の命に思いをはせているあたりに既に細みの句ではあるが、それが明確に句の表に出ていない。

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声   芭蕉
 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ 同

といった中間の形になったとき、「さびしさ」の「岩にしみ込む」という、人の命の儚さを暗示させる「しほり」を具えることになる。
 そして、

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句に至った時、王籍の『入若耶渓』の、「蝉は騒がしく鳴いて林はいよいよ静けさを増し」の句を踏まえて、古典の情に結び付けられる。
 古典の不易の情を借りながらも、長年にわたる儚い蝉の声が岩に染みている、という原案の新味の情が裏に隠されることになる。
 この二重の意味が込められることで、「閑さや」は単なる静寂ではなく、同時に死の静寂をも意味し、この句の「さび」となる。
 表面的には静寂の句だが、裏に人の命の儚さを暗示させる。これが芭蕉の最高のテクニックだった。さすがに門人にここまでできる者はいなかった。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の場合は「蛙飛び込む水の音」の下五が成立した時点で、新味はあるが何を言おうとしているかよくわからない、ただ心に浮かんだ一つのネタにすぎなかった。
 これが、

 山吹や蛙飛び込む水の音    芭蕉

となった時には、井手の玉川の蛙の不易に結び付けられる。ネタから入って、趣向を後付けする作り方になっている。
 この上五を「古池や」に変えたとき、最初の蛙の水音のネタがより身近なあるあるネタとして生きてくると同時に、「古池」が時を経て荒れ果てた情景となり、句の「さび」となる。そこには自ずと在原業平の「月やあらぬ」の情が喚起され、不易の情を具えることになる。

 「又不易ハ一度心に得て、変ずる事なし。故に流行のごと、切におもひ、切にすてず。平生に離れざるもの也。流行の句を案ずるうち、或ハ不易の姿うかみ来れバ、則取て以て句とす。此を旧染の風のごとく、去嫌ふ物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52)

 不易は古典や芭蕉の成功した句から学んだら、それはもう変わることがないのだから、趣向の段階から常に意識しているもので、それを流行の句に仕上げようとしているうちに、新味に乏しくても不易だと思うなら、それは句として仕上げる。これは単なる時代遅れの句ではない。
 『去来抄』「先師評」に、

 「猪のねに行かたや明の月   去来
 此句を窺ふ時、先師暫(しばらく)吟じて兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤るハ、先師といへども帰り待よご引(ひき)ころの気色しり給はずやと、しかじかのよしを申す。先師曰、そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。これよりは多少の新味がなければ、「則取て以て句とす」というわけにはいかなかったようだ。
 これに対し、

 岩鼻やここにもひとり月の客  去来

の句は芭蕉も褒めていて、岩頭の騒客には新味を認めていた。

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