2018年9月11日火曜日

 少し前から『乞食路通』(正津勉、二〇一六、作品社)を読んでいる。まだ途中までだ。
 基本的には謎の多く確かな資料に乏しい人物だけに、大胆な仮説で脚色して盛り上げようという本のようだ。それがこの本の「路通捨て子説」なわけだが、まあ、話としてどうつじつまを合わせてゆくか、という所だろう。どうせなら「路通サンカ説」くらい突拍子もない設定の方が面白かったかな。芭蕉忍者説のように小説家なんかにできそうだ。
 私自身の印象では、路通は意外に身分の高い出で、それを恥じて隠しているのではないかと思った。八十村(やそむら)は俗姓だが、「斎部(いんべ)」の方は本来の意味での「姓」で、この姓を持つなら由緒ある家柄だ。和歌や漢文の素養も頷ける。
 乞食の形(なり)をしながらも気位が高いのが、嫌われる原因だったのかもしれない。本当の出自を誰も知らないから「何様だ」と思ったのだろう。芭蕉と曾良はそのあたりの本質を見抜いたのではなかったかと思う。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「言語・筆頭を以て、わかちがたからん。強て此をいはば、さびハ句のいろに有。しほりは句の余勢に有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 さびは時の経過、肉体の老化などの色に出すことで、しほりは花の萎れるような失われる悲しみを余勢とする事象をいう。

 「しかれども、趣向も詞・器も又撰ずんバ有べからず。詞・器よしといふとも、趣向拙からバ、無塩の面に西施が鼻を添たるがごとならん。趣向よしといふとも、詞・器よろしからずんバ、又梅花上に糞をぬりたるに同じからん。豈此をかほよし、かうばしといはんに、人信ぜんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47~48)

 このあたりは晩年の芭蕉の「軽み」に対し、一定の歯止めをかけようという去来の思惑で、必ずしも芭蕉の意思ではなかっただろう。
 『去来抄』には「句の位(くらゐ)」について述べた文が「さび」と「しほり」の間にあるが、その原型といえる議論かもしれない。

 「野明曰、句の位(くらゐ)とはいかなる物にや。去来曰、一句をあぐ。
  卯の花のたえ間たたかん闇の門ド    去来
先師曰、句位(くゐ)よのつねならずと也。去来曰、此句只位尋常ならざるのみ也。高意の句とはいひがたし。必竟格の高き所有。扨(さて)、句中に理屈を言ひ或はあたり合たる発句は、大おほかた位くだれる物也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78)

 釈迦の生誕に結び付けられることの多い卯の花を中を行き、真っ暗な中で友の家の戸を叩くというのは、いかにも高士同士の交わりを連想させる。それゆえ芭蕉は「句位(くゐ)よのつねならず」と賞したのであろう。
 これを根拠に、句を詠むには高士の心が大事で、卑俗な題材に走るのを戒めようとする。
 言葉や使われている物がどれほど綺麗でも、下卑た心で詠んだのなら、確かに「無塩の面に西施が鼻を添たるがごと」であろう。「無塩」は、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「4 《中国、戦国時代斉の宣王の夫人鍾離春が、山東省無塩の出身でたいへん醜かったところから》醜い女。無塩君。
「押し売りに―の后斉(せい)へ来る」〈柳多留・二〉」

とある。
 ただ、それはあくまで心の醜さが問題なのであって、容貌の醜さとは関係ない。
 逆に趣向がよくても、言葉や登場する物が醜いなら、というが、心に風雅の誠があるなら、卑俗な言葉や卑俗な事象を嫌わないのが芭蕉の目指した俳諧ではなかったかと思う。
 梅の花に糞を塗ってはいないが、

 鶯や餅に糞する縁の先     芭蕉

は俳諧ではないか。
 時代は下るが、

 杜若べたりと鳶のたれてける  蕪村

の句もある。
 おそらく去来は「十団子」の句を芭蕉が「しほり」があると言ったことに、どうにも納得ができなかったのではないか。
 後の『去来抄』では「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。」と、まあ先師が言うのだからそうなのだろう、という所で収めている。

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