今日は久しぶりに晴れて、有明の月が綺麗だった。
それでは「一泊り」の巻の続き。
二十三句目。
此ごろ室に身を売れたる
文書てたのむ便りの鏡とぎ 芭蕉
室津に売られていった遊女には愛しい人がいた。手紙を書く自由すらない世界で密かに誰かに手紙を託すとすれば、それは諸国を旅する「鏡とぎ」であろう。
「かがみとぎ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。その技術を江戸時代の《人倫訓蒙図彙》(1690)に〈鏡磨にはすゝかねのしやりといふに,水銀を合て砥(と)の粉をましへ梅酢にてとくなり〉と記すが,それ以前,室町時代はザクロ,平安・鎌倉時代はカタバミが使われていたらしい。江戸時代はとくに越中(富山県)氷見(ひみ)の者が中心で,毎年夏から翌年春にかけ西は摂津から東は関東一帯へ出稼ぎし,全国の大半はこの仲間が占めた。」
とある。
二十四句目。
文書てたのむ便りの鏡とぎ
旅からたびへおもひ立ぬる 白之
恋から旅体へ転じる。恋離れの句。
ただ、「旅から旅」は鏡とぎの属性なので、展開としては具体性もなく鈍い。
二十五句目。
旅からたびへおもひ立ぬる
たふとさは熊野参りの咄して 残夜
旅といえば熊野参り。熊野古道は今でも大人気だ。
熊野詣の功徳を人に語りながら、自分もまた旅から旅へ、また新たな旅に出る。
そういえば、芭蕉さんは熊野詣はしていない。
二十六句目。
たふとさは熊野参りの咄して
薬手づから人にほどこす 路通
前句の「たふとさ」を熊野の尊さではなく、薬を自分で処方して人々の病気を治してゆく人の尊さとする。熊野で修行して、薬の知識を身につけた人だろう。
二十七句目。
薬手づから人にほどこす
田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと) 芭蕉
薬を只でみんなに配れるような人は、昔も今もお金のある人だ。えらい慈善家になるにはうんとお金が必要だと、昔読んだスヌーピーのネタにもあった。確かライナスはそう言われて「人のお金で慈善家になるんだ」と答えたっけ。当時はまだクラウドファンディングはなかったが。
世捨て人とはいっても、お寺は寺領を所有し、経済的基礎があって初めて慈善事業もできる。
世の中とはそういうもんだよ路通君、というところかもしれない。乞食坊主では人を救う前に、先ず自分を救わなくてはならない。
路通の生き方はロマンチックで惹かれるところはあるものの、芭蕉はやはりリアリストだ。
二十八句目。
田を買ふて侘しうもなき桑門
犬ほへかかる森の入リ口 蘭夕
立派なお寺には優秀な番犬もいるもんだ。
二十九句目。
犬ほへかかる森の入リ口
夕月夜笈をうしろにつきはりて 曾良
「笈」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の2種がある。箱笈は内部が上下2段に仕切られ,上段に五仏を安置し,下段に念珠,香合,法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり,木彫で花や鳥を表わし,彩漆 (いろうるし) で彩色した鎌倉彫の装飾を施したものもある。」
とある。
芭蕉や曾良が旅に用いた「笈」は蓋のついた竹籠に背負い紐のついた簡単なもので、諏訪市・正願寺所蔵に曾良が「おくのほそ道」の旅で用いた笈というのがあり、画像も「おくのほそ道文学館」というサイトにある。
同じ笈でも豪華なものから質素なものまでいろいろあったようだ。
「つきはりて」は今なら「突っぱって」で、夕月に照らされて大きな笈が後ろに大きく突き出ているさまが、シルエットになっているという感じか。
曾良自身の旅姿の自画像と言えるかもしれない。森の入口では野犬に吠えられたこともあったのだろう。生類憐みの令で当時は野犬が増えたともいう。
三十句目。
夕月夜笈をうしろにつきはりて
そろそろ寒き秋の炭焼 残夜
『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本三郎注に、「山伏に炭焼を対せしめた付。」とある。いわゆる「向え付け」で、中世連歌では「相対付け」と言った。漢詩の対句を作るように、二つのものを並列する付け方をいう。
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