全米オープンで大坂なおみが日本人で始めて優勝した。正確には日本とアメリカの二重国籍だが、日本の代表として出ている以上は日本人だった。
当然の事ながらアメリカ人はセリーナ・ウィリアムズを応援し、最後は大ブーイングになった。
これを見てスポーツが国と国の威信を賭けた戦いだとしても、人種だとか民族だとか血筋だとかには何の関係もないということがよくわかった。
サッカーでもラモス瑠偉はアマチュア時代から日本のサッカーを育ててくれた恩人だし、卓球の張本も中国系だがそんなの関係ない。
きっとベルリンオリンピックの時のマラソンランナー、孫基禎(ソン・ギジョン)と南昇竜(ナム・スンニョン)もそうだったのだと思う。日本の代表として金メダルと銅メダルを取って、国民はみんな大喜びだったはずだ。
一瞬でも人種や民族や血筋を忘れる瞬間がスポーツにはある。それはすばらしいことだと思う。
あと、日本ではアメリカのCNNの報道に違和感を感じる人は多いだろう。日本の過度な武士道精神は、男子にすらラケットを壊したり暴言を吐いたりする行動に寛容ではないし、まして女子がそれをすることを男子と平等の権利を主張しているとして評価することはない。男の悪い所を見習うべきではないということだ。
おそらくアメリカは男子の暴力的な言動に寛容すぎるのだろう。むしろアメリカ男子こそが大坂なおみを見習った方がいい。
それでは『俳諧問答』の続き。
「来書曰、かれに及ぶ又門弟も見へず。
四、去来曰、是おそらくハ阿兄の過論ならんか。角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいただかん。角が句のひききを以て論ぜバ、我かれを脚下に見ん。況や俊哲の人をや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.42~43)
其角は才能はあるが句は卑近ということか。まあ、「卑近」というのは庶民の俳諧にとって悪いことではない。高い志、深い誠の情を卑近な言葉で語るのが本来の俳諧なのだから。「我かれを頭上にいただかん」は当然としても、「脚下に見ん」は過論だろう。軽んじるというか。
文庫版は「反本」にはない次の文章を小さな文字で記している。
「予、亢て此をいふにあらず。同門の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄もその一人なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)
自分の思い上がりを正当化するために許六をも巻き込もうという作戦か。さすがに版本には記せない。
「来書曰、なんぞや、亡師の句に対して斉しからんと論ぜらるるハ却て高弟の誤といはんや。
五、去来曰、此阿兄の論精密ならず。予が角に贈る文に、却て師の吟跡と斉からずと書せり。阿兄跡の字に力を加へ給へ。
たとへバ、一日に二十里を東行する者有。又十里を東行する者有。及ばずといへども、共に跡を斉うす。角ハその東行する者に非ず。
昔日去来曰、いにしへより名人多しといへども、はじめて俳諧の神に入たる人ハ我が翁也。角此を聞て曰、吾子が言しかり。はじめて俳諧を神に入る人ハ我翁なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)
其角の句が亡き師芭蕉の句にも匹敵するものがあるのは確かだろう。ただ、方向性が違うと去来は指摘する。特に芭蕉の晩年、点取り俳諧に走った其角との確執は大きかったようだ。
元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に、
「江戸た家之事は、評判無益と筆をとどめ候。其角・嵐雪が義は、年々古狸よろしく鼓打はやし候半。」
とある。
許六宛書簡だけに、こうした反目があったことは許六も重々承知していたし、また、だからこそ江戸滞在の時に許六に眼を掛けてくれたわけだから、そんなに悪い気はしなかったのだろう。
其角・嵐雪は俳諧の多様化の役割を果たしたのであって、別に句そのものが劣化したわけではない。去来の最初の書にあった才麿・一晶についても許六は何も触れていない。許六にとって我慢ならないのは路通・惟然のような乞食風情のほうだった。
「俳諧の神」という言葉を最初に言ったのは去来だったにしても、「神」というのは人智を超えているが故に「神」なのであり、単なる基や本意本情の不易を超えている。それ故に俳諧の路線の違いを超えている。東へ行こうが西へ行こうが「俳諧の神」はあらゆる場所にある。自分の行く方向にしか「俳諧の神」はないと思ったなら、それは驕慢というべきであろう。
「又ノ五、去来曰、吾子が言も亦、一理あり。二言意味やや異リといへども、共に先師を以て古人にまされりとす。予なんぞ角が師とひとしからざる事うれへんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)
一理ありとしながらも、要するに先師芭蕉を敬う点では斉しいとうだけのこと。
「来書曰、予不審あり。師遷化の後、諸門弟の句に秀逸出ざる事ハいかん。
六、去来曰、此論強て工夫をつくすべからず。師教月々に遠く、我意日々に生ず。ただ秀逸の出ざるのミに非ず。却てその血脈をうしなふ者あらん。ひとり此道のミにかぎらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)
秀逸はもとより簡単に出る物ではない。だから秀逸が出ないからといって、誰か裏切り者がいるだとか言って犯人探しをするなどはもってのほかだ。それゆえ「工夫をつくすべからず」。
ただ、去来も師の教えから離れて我意を通そうとし、血脈を失うものがいるとしている。ただそれは俳諧にかぎらず、世間では普通のことだとする。
「血脈」は単なる血筋、血統を意味するのではなく、日本では特に擬制としての血筋、つまり師弟関係において継承されてゆくものを意味する。特に仏教の方でよく用いられる。
ただ、芭蕉のように、弟子によって教え方が違っていたりすると、何が本当の血脈なのかはそれぞれ勝手に解釈することになり、結果的に「我意日々に生ず」になってしまったのだろう。本当の血脈は「風雅の誠」、あるいは「俳諧の神」の他にないと思う。
この時代に「血脈」という言葉を重要な場面で用いてた人に、儒教の古学者、伊藤仁斎がいる。伊藤仁斎は儒教を学ぶ時に朱子学の理論の体系よりも、『論語』『孟子』に記された古人の言葉からその血脈を読み取ることを重視していた。いわば孔子・孟子の直弟子たれということか。
これに対し荻生徂徠は、孔子・孟子も先王の道を求めていたのだから、学ぶべきなのは孔子・孟子ではなく、先王の道だとした。
俳諧の血脈も芭蕉の言葉ではなく、あくまで芭蕉が求めたものにある。
「又六、又曰、秀逸の事ハ、先師在世の内といふとも稀ならん。また、遷化の後もなしといひがらからんか。然レども今の世に当て、其秀逸をさだむべき人誰ぞや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)
秀逸を定めるのは学者や評論家ではなく大衆であるのは言うまでもない。一人の人の価値観や判断はどうしたって偏るもので、たくさんの人が判断することで偏りは中和され、公正な判断となる。民主主義はそれゆえ哲人独裁に勝る。
俳諧の秀逸も、たくさんの名もなき江戸庶民がこの句は後世に残さなくてはいけないと考え、語り伝えられてきたものに他ならない。
古池の句はもとより、芭蕉の句は誰よりも多く人口に膾炙している。近代に入っても、庶民はもとよりたくさんの学者、文化人たちも芭蕉の句を無視できなかった。中には厳しく批判し糾弾する者もいたが、それでも幾多の批判に耐えて生き残ったことが秀逸の証しと言っていい。いまや芭蕉の句は世界の人々にも愛されている。
芭蕉亡き後「秀逸出ざる」というのは、いわゆるヒット作が出ないということだ。
ただ、これはヒットするとある程度予測できる人はいる。芭蕉は秀逸を定む人ではなかったが、秀逸を予測する人ではあった。
「むかし先師凡兆に告て曰、一世の内秀逸の句三・五あらん人ハ、作者也。十句に及ん人ハ名人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)
今、特に俳句に興味のない人に、どんな俳句を知っているかと尋ねれば、おそらくその多くは芭蕉の句であろう。教科書には蕪村や一茶もあれば近代俳句もあり、受験で覚えさせられたりするが、そうした影響を考慮に入れても、受験が終ってなお残っている句はたいてい芭蕉の句だ。
学校教育の影響が少なかった時代は、かえって江戸時代の芭蕉以外の作者の句をたくさん知っていたかもしれない。ただ、作者の名前がうろ覚えのせいか他の作者の句を芭蕉の句と勘違いしている人も多かった。
私も以前いた運送屋で、
行水の捨てどころなし虫の声 鬼貫
の句を芭蕉の句だと教えられた。
いろいろ批判はあっても、
朝顔に釣瓶とられてもらい水 千代女
の句などは今でも生き残っている。
目には青葉山ほととぎす初がつを 素堂
の句も、作者の名は忘れられていても、毎年夏になると引用される。
このあたりの作者は一句思い出せればいいほうだが(千代女は「とんぼ釣り」の句もある)、三句、五句、十句思い出せるような作者は数えるほどで、それを思うと芭蕉がいかに神だったかがわかる。現代俳句のそうそうたる連中も、名前は知ってるけど代表作が浮かばない。
「又先師、人々の句の奥意に叶ふものを集めて、集を撰んとし給ふ。此を笈の小文と号すとつたへたり。故有て予が名月の句を入集すと語り給へり。予曰、我句、撰に入べき句いくばく有や。先師ノ曰、汝過分の事をいへり。都(すべ)て我がこの度の集に選び入ん句、五つ持たる者ハまれならん。此を以ておもふに、実に秀逸といはんハ、世に稀なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44~45)
今日知られている『笈の小文』は、芭蕉の遺稿の中から、貞享四年から翌五年にかけての関西方面の旅の草稿をまとめたもので、乙州によって命名されたという。
それとは別に『笈の小文』という撰集を芭蕉が企画してたようだが、定かではない。ただ、『去来抄』「先師評」に、
「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半なかばにて遷化せんげましましけり。此時このとき予申まうしけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺うかがふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝なんぢ過分の事をいへりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)
とある。
これは、
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
という句に対し、洒堂が「猿」の方が良いというのだけど、自分は「客」の方がいいと芭蕉に尋ねたところ、「猿とハ何事ぞ」と洒堂の案を切り捨て、「ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入ける」と言ったというエピソードだった。
洒堂が猿と言ったのはそれほど的外れでもない。後に長澤芦雪が『巌上白猿・水辺群猿図屏風』を描き、岩鼻に座る白猿を書いている。
正岡子規の『飯待つ間』の「句合の月」というエッセイの中で、月の句を詠む際に、
「判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから、先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。」
と書いているが、この「人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居た」というのは去来の「岩鼻や」の句のイメージだろう。
「凡先師の門人の句を賞し給ふや、相当の賞美有、過分の賞美あり。門人是におゐて、或ハ迷ひをとり、自亢(みずからたかぶ)りて、終に己が位をしらざる人も多し。又半途より自かへり見て、つつしむ人も是有。予が不敏といへども、或ハ秀逸・名句、或ハ此句我も不及、或ハ我が風雅汝等一両士にとどむ、是等の賞詞感文すくなしとせず。然レ共、退て此を師の句に正すときハ、雲泥のたがひ有。此を同門の句に合するときハ、群を離れず。猶其賞の身ニ応ぜざる事をしれり。又秀逸のまれなる事をしれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.45~46)
まあ、弟子を育てる時には褒めることも必要だが、芭蕉の書簡とかを見る限りではそれほど過分に褒めてはいないと思う。ただ、芭蕉とて人間だから、芭蕉が良いと思った句がすべてヒットするわけではない。良いと思って褒めたけど後になって忘れ去られてしまった句があれば、結果的には過分な褒め言葉だったということになるにすぎない。
この去来の詞は、おそらく暗に芭蕉が許六の「十団子」の句を褒めたことが過分で、許六が亢ってると言おうとしたのだろう。
実際、芭蕉は許六が初心者でそれでいて身分が高くお金持ちだからといって、過分に褒めたというようなことはなかったと思う。
猿蓑調を脱却して次なる新風を探していた時、芭蕉は古典にこだわらず、より卑近でリアルなネタを探していたと思う。連句でも芭蕉は『猿蓑』の頃から少しずつ経済ネタを試みている。
灰うちたたくうるめ一枚
此筋は銀も見しらず不自由さよ 芭蕉
でつちが荷ふ水こぼしたり
戸障子もむしろがこひの売屋敷 芭蕉
そんな時に出会った、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句は、思わず「これだ!」と思ったのではなかったかと思う。連句で試みていた経済ネタを発句でもできる、という驚きがそこにあったのではないかと思う。
それに続く、
行年や多賀造宮の訴詔人 許六
も同様、当時の芭蕉としては、これが来るべき俳諧だいう確信があったの
ではないかと思う。
そこから芭蕉は『炭俵』の風を江戸で試すことになる。そこでは、
好物の餅を絶やさぬあきの風
割木の安き国の露霜 芭蕉
塩出す鴨の苞ほどくなり
算用に浮世を立る京ずまひ 芭蕉
家普請を春のてすきにとり付て
上のたよりにあがる米の値 芭蕉
千どり啼一夜一夜に寒うなり
未進の高のはてぬ算用 芭蕉
今のまに雪の厚さを指てみる
年貢すんだとほめられにけり 芭蕉
という句が詠まれることになる。
ただこの実験は、『猿蓑』の成功体験からなかなか脱却できない京都・湖南の門人に、十分浸透させることが出来なかったようだ。『続猿蓑』という撰集のタイトルがそれを象徴している。
『虚栗』の余韻の覚めやらぬ其角は『続虚栗』を編み、『阿羅野』の栄光を捨てられなかった荷兮は『曠野後集』を編纂した。『続猿蓑』にもそれと同じ響きが感じられる。
そうこうしているうちに芭蕉の寿命が尽きてしまった。
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