今日は秋雨前線の南下で雨が降り、やや涼しくなった。文月も二十二日。
それでは『俳諧問答』の続き。
「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)
許六のいる彦根は湖東だから、湖南・京師の門弟に許六は含まれない。曲水、乙州、智月、正秀など大津、膳所の門人を指しているのだろう。京都は言うまでもなく去来の一派になる。とはいえ、ここは明らかに去来一人を名指しいるのではないかと思われる。
去来は感覚的に句を作るのではなく理詰めで作るところがある。『去来抄』「先師評」の丈草の「うづくまるやくわんの下のさむさ哉」の句のところで、去来は「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。」と言っている。
このとき去来が詠んだ句は、
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
で、「冬ごもり」という季題の興から、「あまりをすする」という景を導き出して無難に仕上げている。季題の本意本情を念頭において、何となくそれにあった景を引き出すのは、去来の得意とするパターンだった。
元禄九年刊の『韻塞』の、先に引用した、
行かかり客に成けりゑびす講 去来
行年に畳の跡や尻の形 同
芳野山又ちる方に花めぐり 同
見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同
の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付けている。
去来のよく知られている、
何事ぞ花みる人の名が刀 去来
花守や白きかしらをつき合せ 同
も基本的にはこのパターンで作られている。
同時に人の句を評する時も、ほとんどマニュアルのように不易か流行か、さび、しおりはあるかという所を評価基準にしていたのだろう。
これに対し、
うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
の句は「寒さ」の興から「やかん」の情景を導き出しているわけではない。「うづくまるやくわんの下」という自分の置かれている状況から、真っ直ぐにその情の籠る「寒さ」を導き出している。
許六の言う「これ船をきざみ」は、「剣を落として舟を刻む」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《乗っている舟から剣を落とした人が、慌てて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという、「呂氏春秋」察今の故事から》古い物事にこだわって、状況の変化に応じることができないことのたとえ。舟に刻みて剣を求む。」
とある。
「琴柱に膠す」も同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《「史記」藺相如伝による。琴柱をにかわ付けにすると調子を変えることができないところから》物事にこだわって、融通がきかないことのたとえ。膠柱(こうちゅう)。」
とある。
「一句ふつつかなりと見やれども、さび・しほりおのづからそなはりて、あはれなる句もあり。また予が年やうやう四十二、血気いまだおとろへず。尤句のふり花やかに見ゆらん。しかれども老の来るにしたがひ、さびしほりたる句、おのづからもとめずして出べし。詞をかざり、さび・しほりを作りたらんは、真のはいかいにはあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)
「一句ふつつかなり」は、
十団子(とうだご)も小粒になりぬ秋の風 許六
の句のことか。『去来抄』「修行教」に、「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。」とある。
当時は四十で初老と呼ばれ、働いている人もそろそろ隠居を考える時期だ。芭蕉は数え三十七で持病が悪化し、深川に隠棲した。四十二で「血気いまだおとろへず」は自慢しているのか。
まあ、年取れば自ずとさび・しほりは具わるものだから、元気なうちから無理してそれを真似る必要がないし、真似たらそれは嘘になるということを言いたいのだろう。
連歌の時代だが『宗祇初心抄』には、
「若人の連歌に、
いにしへの猶しのばるる身はふりて
夜半のね覚ぞむかし恋しき
老ての後の身をいかにせん
か様の句共似合候はず候、此心能々御心得あるべく候」
とある。
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