台風が通り過ぎてゆく。こちらでは雨は降らず、風だけだ。
では『俳諧問答』の続き。
「北狄・西戎のゑびす時を得て吹をうかがひ、次たいにみだりに集をつくらん事、尤悲しむに堪へたり。高弟、此そしりを防ぐ手だてありや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)
横澤三郎の注釈に、「『和漢朗詠集』の春の部に、吹を「かぜ」と読むべき処があるが、ここでは更に風の意に用ゐたのであろうか。審かでない。」とある。
これは冒頭の「立春」で、
内宴進花賦 紀淑望
逐吹潛開不待芳菲之候。
迎春乍変将希雨露之恩。
吹(かぜ)を逐(お)ひて潛かに開く芳菲(はうひ)の候(とき)を待たず。
春を迎へて乍(たちま)ち変ず将(まさ)に雨露の恩を希(こひねが)はんとす。
を指す。変風変雅だとか風流だとかいう時の「風(かぜ)」と区別するために、あえてこの文字を用いたか。
風流を追い求めてという意味ではなく、単に世評(風向き)を気にしてという意味であろう。
とはいえ、許六のこの書は去来が不易体と流行体の二つに惑わされていることを指摘するはずだったのだが、話は完全にずれてしまっている。路通のようなものと通じているだとか校正が甘いだとか、そんなので監督責任を追及されてしまっても、また別の問題だ。
結局は「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。」に尽きるのではないか。
去来が芭蕉の古くからの高弟である其角に多くのものを求めすぎたように、許六も去来に多くのものを求めすぎているだけではないか。秀逸の句なき事をかなしむだけで、自ら秀逸の句をものにしようとするのでもなく、万事他人任せだ。
結局芭蕉亡き後、誰も芭蕉のようにはなれないからとあきらめて、ただ芭蕉の生前の教えをそれぞれ守っているだけで、だれも新たな俳諧へ向けて冒険しようとしない。
過去の焼き直しばかりで新味がなければ、大衆も次第に飽きて俳諧から離れてゆく。
そんな中でただ一人新風を起そうとした人がいたとすれば、この問答の後のことであるが、惟然ではないかと思う。ひょっとしたら去来と許六がこうした不毛な論争に終始しているのを見て、一念発起したのかもしれない。
その惟然のことをこう言う。
「惟然坊といふもの、一派の俳諧を弘るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ噺し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38~39)
惟然は元禄八年の秋に九州の旅に出る。芭蕉の見残しを見に行く旅であろう。(以下『風羅念仏にさすらう』澤木美子、一九九九、翰林書房による)
彦山の鼻はひこひこ小春かな 惟然
の句が果たしてこの時の句なのかどうかは定かでない。
元禄九年には奈良の吉野の花に遊ぶ。
よしのにて
けふといふけふこの花の暖さ 惟然
元禄十年には奥の細道を逆回りする。別に逆回りしたから芭蕉翁が蘇る
とかそういうことではない。
七夕やまだ越後路のはいり初 惟然
酒田夜泊
出て見れば雲まで月のけはしさよ 同
象潟にて
名月や青み過たるうすみいろ 同
松島や月あれ星も鳥も飛ぶ 同
『俳諧問答』の「贈落柿舎去来書」が書かれたのは、まだこの頃であろう。
「風羅念仏」を考案するのはこのあとの元禄十三年四月のことだという。あの独特な超軽みの俳諧が確立されるのは元禄十五年の春から夏、二度目の播磨を訪れた時だった。ここで千山とともに『二葉集』を編纂し、上巻を元禄十五年、下巻を元禄十六年に刊行する。
「故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に辱を晒すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)
惟然の集というと、元禄七年五月刊の『藤の実』がある。まだ芭蕉は存命で、惟然もまだ素牛を名乗っていた。そのほかに元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』があったらしいが現存しない。
『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)には、
「途中彦根を過(よ)ぎる。許六に紀行を与へて曰く、吾子題すべし。許六これを諾(しやうち)し、彦山の句を巻頭にして、天狗集と名づけたり。」
とある。『俳諧問答』で言っていることとずいぶん違うし、伝説の類であろう。
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